パンクブーブー

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所属事務所:吉本興業
メンバー :佐藤哲夫(1976年4月3日生まれ・AB型・ボケ)
       黒瀬 純(1975年5月8日生まれ・O型・ツッコミ)



2人は元々、別コンビで活動していた。初対面は黒瀬を含む福岡吉本8期生の歓迎会で、
佐藤はその二つ上の先輩として彼らと顔を合わせた。お互いの第一印象は佐藤→黒瀬「ダサイ奴」
(黒瀬曰く、「当時は重ね着さえすればお洒落だと思っていた」といい、「重ね着の黒瀬」という
あだ名がつけられていたらしい)、黒瀬→佐藤「寡黙で雰囲気のある、ちょっと怖い先輩」であり、
とりたてて好印象というわけではなかった。その後、福岡のローカル番組でリポーター役として
共演しているうちに親交を持つようになる。

その後、ほぼ同時期にお互いのコンビは解散。上京を考えていた2人は自然と行動を共にするように
なるが、たまたまボケとツッコミだったということから、「とりあえず2人でやってみようか」と
いう流れになる。偶然と成り行きが重なった形で、2001年4月に佐藤と黒瀬で「パンクブーブー」
を結成。それゆえ、「才能に惚れた」「こいつとなら自分が目指すお笑いが実現できると思った」
「お笑い芸人としての将来を誓い合った」等の「素敵で感動的なエピソードは一切無い」といい、
「フワフワした感じで組んだ」という。

結成当初のコンビ名は、「ブーブー・ザ・パンク」だったが、程無くして現在のコンビ名
「パンクブーブー」に改める。コンビ名の由来は、それぞれの解散してしまったコンビを車に例え、
「車(ブーブー=コンビ)がパンクしてもくっついて力を合わせればまだ走れる」という意味。

当時の福岡吉本では所長の方針で、「事務所の許可なしに芸人自身の判断で東京の事務所へ移籍
することは認めない」というものがあり、どうしても上京したい芸人は「一度吉本を辞め、
東京吉本のオーディションを受けて入り直す」というのが慣例であった。上京にあたり、
パンクブーブーもこれにならって一度吉本興業を辞める。東京に来たときには、吉本にこだわらず
東京の芸能事務所のオーディションに参加していた。それから間もなく、東京に転勤になった
その福岡吉本所長(二人を事実上解雇した張本人)から謝罪を受け、「吉本の新しい劇場
(ルミネtheよしもと)がもうすぐ完成するから、もう一度吉本に来い」と誘われる。結果、
再び吉本入りを決意。ルミネの誕生と共にルミネの舞台に立ち続けている数少ない芸人でもある。

「周りに支えられ芸人」と自称するほど、多くの理解者や仲間に恵まれている。特に舞台叩き上げ
の芸人たちや長年くすぶってきた芸人たちからは絶大な信望がある。
早くから彼の才能を見抜いていた芸人に博多華丸大吉次長課長の河本などがいる。

結成から2年後の2003年、NHK『爆笑オンエアバトル』に初出演し、番組記録タイとなる高得点を
マーク。一躍、コアなお笑いファンの注目を集める存在となる。
高評価の代名詞・オーバー500獲得回数11回の最多獲得記録保持者であることから、番組内では
「ミスターオーバー500」という呼称で呼ばれた。しかし、通常回では番組屈指の強豪として高く
評価されていた一方で、強豪挑戦者のなかからチャンピオンを決定するチャンピオン大会では
成績が振るわないことが多かった。2008年4月のナレーションコールでは「無冠の帝王」と紹介
されており、実力の高さと勝負弱さ、不運を併せ持ったコンビであった。


主に漫才を専攻しているが、時々コントも行っている。佐藤の低い声や口調を生かしたキャラや
黒瀬の戸惑い気味のツッコミが目立つ。

M-1王者となりメディアへの露出が増えた現在でも舞台に立ち続けることに強いこだわりを
持っており、ネタとトークの単独ライブをほぼ毎月開いている。

漫才の場合、高い技術に裏打ちされた奇をてらわない芸風が持ち味。スタンダードなスタイルの
なかにも言葉選びのセンスや台詞回しに抜群のテンポが光る。緻密で練りこまれた正統派のネタが
多く、「みんなが安心して楽しめる漫才」がコンセプトだと語っている。パンクブーブーとしての
ネタ作りの鉄則は「人の悪口は言わない」「時事ネタはやらない」「下ネタは極力避ける」の3つ。


プライベートで行動を共にすることはないが、「パンクブーブーとして、今後も漫才はずっと
続けていきたい(=これからも2人で活動したい)」と述べている。
 

【受賞歴】

2009年  M-1グランプリ 優勝
2010年  M-1グランプリ3位
2011年 THE MANZAI 2011 優勝


【パーソナルデータ:佐藤哲夫】

大分県大分市出身。大分県立大分豊府高等学校卒業、九州産業大学商学部中退。
高校生のころ、同級生とお笑いコンビ「laughing-hi(ラフィング・ハイ)」を組み、大分県の
ローカル番組『スパーク オン ウェイヴ』で開催された「ハイスクールお笑い選手権」に出場し、
優勝を果たす。その活躍が吉本興業福岡事務所の所長の目に留まり、芸人としてスカウトされる。
福岡吉本6期生となる。
ネタ作成担当。
佐藤のネタ作りは、まず小ネタを集めることから始まる。ボケや話の設定、キャラクターの人物像
などが頭に浮かんだら、キャンパスノートの1ページに1つずつ書き出す。最初は書き込むのは
ノートの片面の端の方のみで、他の部分は後から追記できるように空白のままにしておく。
そしてそのページを破いてノートから切り離し、ひとつのクリアホルダーにためていく。
メモを用意できない状況や外出先では、携帯電話のメールにメモして残すこともある。
こうして小ネタを少しずつためていき、ネタ作りのときはそのメモを机の上に並べ、構成を
イメージしながら小ネタを取捨選択していく。ネタ作りについて佐藤は「大体は核となるボケや
設定がまずあって、それを最も生かすためにどうしたらいいか、と考えながら決めていく」と
語っている。この一連のネタ作り法は佐藤独特のもので、他の芸人仲間からも珍しがられている。


普段は非常に物静かで真面目、人見知りする性格らしく、福岡吉本時代の先輩である博多華丸や
コンバット満は、佐藤の人となりを「人付き合いが全くできない」「割と一人でいることが多い」
「暇さえあればマンガ喫茶にこもってずっとネタ作りをするような奴だった」と言っている。
ネタ作成のほぼ100%を担当しており「10時間ネタを作っていても全然苦にならない」と語っている。
その反面「自分は社交性ゼロ」とも述べており、苦手な人付き合いはすべて相方に任せている。



2010年4月3日、自身の34回目の誕生日に、交際していた一般女性と入籍。
2010年11月6日に第1子となる男児が産まれた。
妻の姉の夫(義兄)は、福岡吉本所属の先輩芸人・コンバット満。元々夫人のほうが佐藤に対し
好意を抱いており、M-1前から「佐藤を紹介してほしい」とコンバット満に頼んでいたそうで
M-1後にそれがようやく実現。当初は佐藤、コンバット共に「ちょっと会うだけ」程度の感覚で
あったが、それがきっかけとなり交際、そして結婚に発展することになる。




【パーソナルデータ:黒瀬 純】

福岡県福岡市中央区出身。東福岡高等学校卒業。
高校卒業後は一般企業に就職し、サラリーマン(アクセサリーの営業)として平凡な毎日を
送っていた。しかし、高校卒業から2年半ほど経った正月、ラグビーの試合を観戦し
「俺もやっておけばよかった」と父親が漏らしたのを見て、「自分も好きなことをやろう」と
思い立ち、芸人を志し、福岡吉本8期生として芸人活動を始める。

中学2年から暴走族のグループに入り、高校2年には副総長になった。
暴走族名は「悪死魔(あくしま)」。
当時を知るバッドボーイズ佐田は「ものすごく怖かった」と語っており、相方の清人は
「黒瀬のケンカを見たことがあるが、ヘッドバットが得意でケンカは強かった」と述べている。

小学生の頃に両親が離婚し(原因は母の浮気)、父子家庭で育つ。
母親は少々ぶっとんだところがあり、借金の連帯保証人に勝手にさせられてしまい、M-1優勝直後の
記者会見で賞金の使い途を尋ねられると、「まず、母親の借金を返したい」と話していた。
ちなみに借金額は18万円。その後、M-1賞金授与式で、母親に100万円を渡している。
前述のように荒れた青春時代を送っており、辛い思いをさせてしまった負い目から、現在でも
父親に対しては頭が上がらない。

相方がネタ作成担当なのに対し、黒瀬は人付き合いを担当している。数多くの先輩、後輩との
交流があり、特に次長課長の河本、品川庄司の品川、COWCOWの多田と仲が良い。
COWCOW多田が率いる「多田軍団」の発起人でもある。また自身でも「くろじゅん軍団」と
いうものを率いているが、芸能界最小派閥と言われている。

2009年のM-1決勝進出が決まったとき、歓喜のあまりその場に泣き崩れて三時間そのまま泣き続け、
周囲の芸人たちからはドン引きされ、カメラマンも途中で帰ってしまった。

名古屋が好きで、大阪で仕事の際もわざわざ名古屋に泊まりに来るほど。

2010年12月25日、M-1制覇前から数年来交際していたトリマーの女性と入籍。
2011年7月20日、第一子(女児)が誕生。



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