バナナマン

ここでは、「バナナマン」 に関する記事を紹介しています。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
所属事務所:ホリプロ
メンバー :日村勇紀(1972年5月14日生まれ・O型・ツッコミ)
       設楽 統(1973年4月23日生まれ・O型・ボケ)



1993年10月、2人の共通の知人であり、現在は『東京フレンドパークII』に従業員として出演
している西秋元喜の呼びかけにより、日村・設楽と西秋の元相方を含めた4人グループを結成
したのが2人の出会いのきっかけ。当時、日村は高校の同級生と組んでいたコンビ『陸上部』を
一方的に相方から解散させられ、ピン芸人としての活動も殆どすることなく、新しい相方を
探している状況だった。一方の設楽は、渡辺正行の運転手をしながら相方を探していた。
そんな2人に西秋から声がかかったわけである。西秋の名前は、『バナナマンのキューピット』
『バナナマンの恩人』として、2人の話に挙がることがある。
4人時代はアルタの裏で待ち合わせとしていた。ところが設楽は、そのグループの2回目の稽古で、
西秋とその相方がつまらないことに気付く。その日、日村の家に寄った設楽はそこで
「(2人を)切るか」と話し、その翌日に西秋を呼んで脱退の意思を伝えた。これが事実上
バナナマン結成の瞬間である。
結成の夜、設楽の家に泊まることになった日村は、一度消えた部屋のあかりを再びつけ、
何を言い出すのかと思いきや、「オレたち、これから凄いことになるぜ」と、真顔で話し、
設楽は突然の告白に戸惑いを隠せなかったという。
1994年2月、「設楽日村」の名でラ・ママ新人コント大会でデビュー(ネタは「パピヨン病」)。
同年春、バナナマンと命名、OFF・OFFシアターにて初単独ライブ『処女』を開催。
当時、単独ライブをやる芸人は珍しかった。
その後、設楽の提案でコンビ名を「バナナマン」とした。由来はひと昔前のアメリカにおける
日本人の俗称「バナナ」(外は黄色「黄色人種」だが一皮剥けば白「白人(みたいな振る舞いを
する)」であるという意味)である。


大ブレイクする事はないが、一定の人気を保って長年続けている事から「低空飛行芸人」を自称。
『芸歴は長いが、実働期間を数えるときゅっと7ヶ月』というのがお決まりの自虐ギャグであった。

ホリプロコムの前身事務所であるM2カンパニーが、芸人を自ら売り込むような事務所では
なかったため、自分たち自身で売り込みを行ったり単独ライブを開いたりしていた。設楽は
「ゲリラ戦法を得意とする」と述べている。またそのため「バナナマンは自力で(テレビに出たり
出来るようになるまで)這い上がった」と語っている。

コンビ仲がよく、互いの誕生日に一番近いラジオの本番中にプレゼントを贈りあったり、ラジオで
日村が設楽に相談したりすることがある。設楽は「自分たちのように)ずっと仲いいって
滅多にない」と述べている。

舞台コントを原点と考えており、毎年夏に行う単独ライブは恒例となっている。ボケ、ツッコミが
はっきりしていない演劇のようなコントが特徴。ライブでは10分〜30分超のコントを主に行うが、
あまりネタの時間が取れないテレビでは、4、5分ほどのコントや、オリジナルのショートコント
を披露する場合が多い。

週何本ものレギュラーを持っているにも関わらず単独ライブを続ける理由について
「ライブ自体には利益も少ないが『テレビに出るようになってライブをやらなくなった』と
言われ出すのが嫌だから」「ライブはつらいけど、終わってみると楽しいと思えるから」などと
述べている。

結成当初は日村が「芸歴も年齢も自分が上だから」とネタ作りを引き受けたが、設楽は日村の書く
ネタをあまり面白いと感じなかったため、設楽も書くようになった。結成して1ヶ月も経つと、
日村はネタ作りを完全に設楽に任せるようになった[4]。コントはたびたび「シュール」と形容
されるが、本人達は『自分達はシュールではない。シュール(な笑い)ってもっとわけの
分からないものだと思う』と語っている。

単独ライブの練習は最終的には2人で合わせるが、基本的にはバナナマン2人で練習せず、
互いに手伝いで来ている若手やスタッフに相手のパートを演じてもらっている。その理由について
「設楽日村で練習すると、本気になってしまって練習で疲れちゃうから」と述べている。


おぎやはぎとは若手時代から公私に渡って親交がある。



【受賞歴】

2008年 キングオブコント2位
2009年 第4回勝手にバナナ大賞
2010年 第5回勝手にバナナ大賞(2年連続受賞により殿堂入り)




【パーソナルデータ:設楽 統】

埼玉県秩父郡出身。埼玉県立秩父農工高等学校機械科卒業後
ネタ作り担当。
家族構成は両親、姉、兄。
西武系企業に勤める父親の縁故で、1992年に西武鉄道に就職。西武池袋線小手指駅で駅員として
働いていたが、僅か半年で退社。その後、カラオケ屋、酒屋の配達など半年間のフリーター期間を
経て、お笑い芸人を目指し父親の友人で制作会社勤務の人の紹介で、渡辺正行の付き人と
して芸能界に入る。

自他共に認めるドSである。
モモイロクローバーZの大ファン。

自らのタバコの不始末にて自宅が火事の被害に遭う。幸いにも自分の部屋が一部屋燃えただけで、
全焼はまぬかれた。しかし、自宅にあった大事な写真やDVD、衣装、バッグ等のほとんどの私物を
この火事により焼失してしまった。



1999年4月23日、19歳の時から交際していた一般人の女性と結婚
2002年4月29日に長女が誕生


【パーソナルデータ:日村勇紀】

広島県生まれ、神奈川県相模原市育ち。神奈川県立相模田名高等学校卒業。
高校在学中に同級生の原田健と共に「陸上部」というコンビで活動していた。渡辺正行主催の
お笑いライブ「ラ・ママ新人コント大会」の情報を同級生から得てオーディションに参加。
以後も出演することになる。高校卒業の際に渡辺から進路を尋ねられお笑いを続けたい意向を
示したところ、渡辺の事務所に誘われ1990年に正式に芸能界入り。

しかし原田が結婚を理由に芸能界から引退することとなり「陸上部」は解散する。一方的に解散を
告げられたために日村はショックを受けたが、 結婚相手は二人の高校の同級生であり、
その人に告白しろとしかけたのは高校時代の日村であった。

その後一年間程は、テレビの再現ビデオに出演したり、1994年3月公開の『横浜ばっくれ隊
夏の湘南純愛篇』のツッパリ役や『機動警察パトレイバー 2 the Movie』にチョイ役の声優と
して出演したり、細々と芸能活動を続けていた。しかし1993年10月に、知人から
「四人でお笑いをやろう」と誘われ、その集まりの席で現在の相方である設楽統と出会う。
その後まもなく、四人組から設楽と日村が脱退する形で現在のバナナマンが結成された。

とんねるずに憧れている。

趣味はビリヤード、相撲。
梅干し、スイカ、コーヒーが苦手。

10代の頃は、今とは似ても似つかない細身でかなりモテたらしく、本人が言うには19歳ぐらいから
おかしくなってきたとの事。

歯の治療に500万円以上かかった。

バカリズムと同居していたころがあり、バカリズムの事を「ヒデ」と呼んでいる。
仲の良い芸人はスピードワゴンの井戸田潤、アンタッチャブルの柴田英嗣、アンジャッシュ児嶋
ケンドーコバヤシおぎやはぎ等。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。