次長課長

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所属事務所:吉本興業
メンバー  :河本準一(1975年4月7日生まれ・AB型・ボケ)
        井上 聡 (1976年2月2日生まれ・B型・ツッコミ)


2人は岡山市立京山中学時代に野球部で知り合う。遅れて入部した河本が初めて練習に
参加した日に、監督が部員にキャッチボールをするよう言ったにもかかわらず、
1人だけバットを持ってフルスイングしていた井上に河本は話しかけ、一緒にキャッチボールを
したのが最初の出会いで、それからは毎日のように一緒に遊ぶ仲になる。
2人はこの中学1年のときに出会って以来、今まで一回もケンカをしたことがない。
2人とも運動神経は抜群だったが、勉強は苦手だった。中学3年のときに8000人が受けた
岡山県内の模擬試験で、河本が7980位、井上が7982位だった。(当時の偏差値は河本23、井上21)。
そのため、高校へ進学できるのか先生も悩んだが、井上は野球のスポーツ推薦で私立高校へ行き、
河本は定員割れの学校を見つけて県立高校へ入学した。
それぞれ違う高校に進学し一時期疎遠となったが、高校2年生の時に河本が井上宅に
遊びに行き再会。再び交流が深まり、頻繁に遊ぶようになった。

高校卒業後、河本は就職先が見つからなかったが、井上は親戚が営んでいたガラスサッシの枠を
作る会社に就職が決まりかけていた。しかし、河本から
「吉本に入ろう!ジャッキー・チェンに会えるで!!」と誘われ、そのまま現在に至る。
井上を誘った理由は「友達の中で、井上がいちばんおもしろかったから。

2人はNSCに入学する為に18歳で岡山から大阪へ上京し、大阪NSC13期生となる。
同期にチュートリアル徳井、野生爆弾ブラックマヨネーズなど。華の13期生と呼ばれる。
NSC在学中は「次長課長社長」というトリオだったが、わずか1年でひとりが岡山へ帰った為に
コンビとなった。
結成当初は3人で一緒に住んでいたが、3か月で家賃が払えなくなり、追い出されたこともあった。

1995年、心斎橋筋2丁目劇場にてデビュー。2丁目劇場閉鎖後は、1999年にオープンしたbaseよしもとの
主力メンバーとして活躍。単独ライブは毎回タイトルに東京23区の区名がつけられ、
全23回開催された。このライブシリーズにはフットボールアワー、ストリーク、レギュラーらが
毎回出演していた。
レギュラーの「気絶」ネタは次長課長が考えたものであり、松本康太は井上の家に半年間、
河本の家に1年間居候していたことがある。
河本が椎間板ヘルニアで入院した際、井上は師弟関係にあるケンドーコバヤシとコンビを組み、
一緒に学園祭などの仕事を行っていた。ツッコミなしでボケにボケを重ねる形のネタを披露し、
非常にウケて好評だったらしい。
しかし、河本が退院した直後に行われた次長課長単独の復帰ライブはだだスベりで
劇場の三階にある本屋のレジの「チーン」という音が聞こえるほどのスベりようだった。
チャイルドマシーン(解散)が東京に行く際、カラオケで号泣しながらシャ乱Qの「上京物語」を
歌って彼らを送った。
2001年に一度だけ、第1回M-1グランプリに出場したことがある。しかし、2回戦でコントを披露して
敗退となった。
2002年9月23日、東京23区の最終ライブ「中央次課長」をもって、本人達の意向により
baseよしもとを卒業。
卒業ライブでは、407人というbaseよしもと(座席数233席)の観客動員記録を作る。
(この記録は未だに破られていない)。
東京進出後 [編集]2002年10月、東京進出。
東京での知名度はほとんどなかったため、一からのスタートとなった。ルミネtheよしもとの
舞台には出演していたが、他の仕事はゼロに近く、苦しい極貧生活の日々が続いた。
(当時の給料は、大阪時代の約4分の1に減少。)
東京ではしばらく芽が出なかったが、2004年頃からマニアックなものまねが注目され始めた。
2003年秋から、TBSの深夜番組「U-CDTV」でネタ見せのコーナー「お笑いCDTV」ライブが始まり、
次長課長だけが毎月必ず出演。東京では珍しく、いくつかの代表的なネタが完全放送された。
この番組をきっかけとして、次長課長が、東京のテレビ関係者に認知され始めたらしい。
TBSに関しては、「お笑いCDTV」終了後、同じスタッフが始めた「Goro's Bar」での東京
初レギュラー出演につながり、さらに、「うたばん」出演や単独冠番組「次長課長のヨイショ!」
などへとつながった。

あくまでコンビ名なのでどちらが次長でどちらが課長というわけではない。だが、ごくまれに
バラエティ番組で「次長 河本」「課長 井上」という設定になることもある。
コンビ名は大阪府で2人がアルバイトしていた居酒屋で、社員だった次長さんと課長さんに
お金をもらい、励まされたことから。

コントのネタ作り以外は、相方である井上をこの世界に誘ったのも東京行きを決めたのも河本。
ゆえに「ネタ作りの主導権は井上、人生の主導権は河本」と語る。
井上がネタを考え、求めていることを河本がしてくれるのでお客さんの誰よりも先に
井上が笑い、井上が求めてることをするために「なんでやねん」というツッコミがない。

ネタはコント、漫才をしていたが、東京に進出してからはコントが主流にんった。
実際に舞台に足を運んで、生でネタを楽しんでもらいたいという2人の意向により、未だに
単独ライブのDVDは発売しない方針である。

河本は仕事終わりにほぼ毎日飲みに行き、逆に井上はほぼ毎日まっすぐ帰る。
他のコンビは次長課長が舞台上以外で話してるところを見たことがないという。

河本が言う井上のすごいところ
オリジナルの事を考えることがすごい、創造性がすごい。
何に対しても臆することのない強心臓の持ち主。
戦士のような肉体美。

井上が言う河本のすごいところ
誰のふところにも溶け込めるところが天才的で、羨ましい。


【パーソナルデータ:河本準一】

岡山県出身、岡山県立東岡山工業高等学校卒業。
名古屋市で生まれ、9歳のとき両親が離婚し岡山県津山市に転居、更に岡山市に転居した。
母親はスナック経営をしながら河本を育てた。小学校から9年間、サッカーをやっており、
高校時代は国体の岡山県選抜メンバーに選ばれた。2年生でキャプテンも務めていたが、
ある試合でのシュート失敗が河本のサッカー人生を狂わせ、退部を決意。
高校2年の秋に、お笑いに興味があった訳でもないが、MBSテレビの『素人名人会』に出演し、
敢闘賞を受賞した。

18歳で芸人になりたくて大阪へ。1994年に井上、山下正人とトリオ「次長課長社長」を結成。
だが、1年程で「社長」にあたる山下が脱退した為、コンビ「次長課長」に変更。
最初はツッコミ担当であったが、1999年3月の心斎橋筋2丁目劇場閉館直後にボケに転向。
近年は相方の井上がバラエティ番組などで天然ボケをいじられる機会も多く、ツッコミや仕切りを
務めることも増えてきている。

岡山から大阪に出てきた当時は何度も岡山に帰ることも考えたが、相方井上の存在が
踏みとどまらせた。「自分がこの世界に引きずり込んで、あいつの人生を狂わしたのに、
自分が帰ったらあいつはどうなる」と発言。

19歳のとき、ホストとして働いたことがある。たびたび披露しているタンバリン芸は、
このホスト時代に覚えたもの。また、働いていたホストクラブでNo.3だったと言っているが、
その店にはホストが4人しかいなかった。


東京に進出してしばらくは仕事がなく当時の月給は4万円であり、河本はルミネの近くにある
託児所に子どもを預け、出番が終わると歌舞伎町の風俗案内所でアルバイトをしていた。
嫁は当時、銀座でホステスをしており40万円稼いでいた。みのもんたに指名された事もある。


2003年3月に、元大阪パフォーマンスドールの重元直美と結婚し、現在一男一女の父である。
宮迫博之(雨上がり決死隊)、オール阪神などと並ぶ恐妻家としても有名で、実際に妻に
束縛されたりすることがある。

『ダイナマイト関西』でのキャッチフレーズは「お笑い慶應ボーイ」。

仲の良い芸人は品川庄司の品川、オリエンタルラジオの藤森ら。
大御所の堺正章とも仲が良く、堺の自宅に遊びに行くほどである。



【パーソナルデータ:井上 聡】


岡山県岡山市出身、金山学園高等学校卒業。
お笑い界屈指のイケメンとして知られており、クールな性格だと思われがちだが、
かなりの天然ボケで、クイズや雑学系の番組にて珍解答ばかりをする為、「バカ」「アホ」などと
いじられる事も多い。また、自他共に認めるおたくであるという。

中学の時に、先生に高校に進学したいと言うと、「井上、夢を見るな」と言われた。

趣味はゲーム、アニメでドラゴンボールに関しては芸能界一のドラゴンボールファンとも言われ、
原作者の鳥山明とはメール交換する仲になり、キャラクターも模した似顔絵を書いてもらった。

酒が飲めず、非常に小食。
女の子と2人きりになった時に、ずっと河本がおもしろいという事を話していた。

仲の良い芸人は、麒麟川島、ケンドーコバヤシハリセンボン箕輪など。
基本的には後輩と仲良くすることが多い。

吉本男前ランキングで3年連続1位になり、2008年に殿堂入りを果たした。

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