爆笑問題

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所属事務所:タイタン
メンバー  :太田 光 (1965.5.13生まれ・O型・ボケ)
        田中 裕二 (1965.1.10生まれ・B型・ツッコミ)


二人の出会いは日本大学芸術学部の試験会場であり、試験会場で試験官を茶化していた太田を
見た田中は「関わり合いになりたくない」と思っていた(とはいえ田中は、どうせ受からない
だろうと思い込んで、野球のユニフォームを着て受験に臨んでいた)。その後、大学の合格
発表時に偶然再会して田中が「え、こいつ日大受かっちゃったよ」と思い太田に話しかけた所、
太田は受験会場の様子とは全く違い、律儀な受け答えをしていた。また、太田が入学後の最初の
授業でも騒ぎ他の生徒達を盛り上げたが、田中はその雰囲気に乗らなかった。

日本大学時代の取得単位は二人合わせて17単位だった。しかも太田は2単位しかとっておらず、
そのうち1つはスキー合宿の参加者全員にもらえる単位だった。太田は後に、日本大学
芸術学部の教授を「俳優になろうとしてなれなかった奴らの溜まり場。俳優を育てようなんて
なんも思っちゃいない」と批判しては、講義を欠席していた。
中退後の1988年3月に結成。

コンビ名の由来はラテ欄でよく使用されるフレーズ「爆笑」と、本屋でたまたま「問題実話」と
言う本を目にした際、タイトルに「問題」と入れていたことが印象に残っていたことから太田が
命名。また、カタカナ名のコンビが多いため目立とうとしたのも理由の一つ。
渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会でデビュー。その場で太田プロにスカウトされる。
ホンジャマカ、浅草キッドなどと共に「お笑い第三世代と第四世代の狭間の世代の代表」と
言われる。1988年7月頃に『笑いの殿堂』でテレビデビュー。以降順調にレギュラーを増やし、
若手芸人のホープとなる。ショートコント全盛の時代に、「進路指導室」「東京の不動産屋」
などの作り込まれたコントで注目を集めるが、次第に漫才を主体とするようになる。
太田の毒に満ちたボケと田中のストレートなツッコミという正統的漫才で人気を集めた。
1990年に太田プロから独立。しかし、この独立は一方的に辞める形だったため、太田プロの怒り
を買うことになり、一時的に仕事がなくなりテレビからも姿を消す。いわゆる干された状態
だった。辞めた理由については、自分達のやりたい仕事がしたかったから、人気者となった
二人を当時の担当マネージャーが唆した、など諸説あるが、このことについて自ら話したりネタ
にすることはなく、周りもその話題に触れることはない。太田はこのことについて、当時は
面白ければ仕事がなくなることはないだろうと思っていたと語っている。この時期は、
田中は主にコンビニのアルバイトで、太田は妻・太田光代のパチンコやパチスロでの稼ぎで
生計を立てていた。太田は暗算が非常に苦手で、レジのバイトをすると客から苦情を
言われないようにと釣銭を多く渡す等、まともにアルバイトせず家に引き篭ってファミコン
漬けの日々だった。また、田中が売れ残ったコンビニ弁当を届ける際にも顔を出さなかった。
一方、田中はこのまま社員にならないかと声をかけられるほどの仕事ぶりであった。
しかし3年間全く仕事がなかった訳ではなく、オムニバスドラマ番組『悪いこと』では脚本(太田)
出演(太田、田中)、オムニバス映画『バカヤロー!4』(森田芳光プロデュース)の中の一本
では監督(太田)を務めた。また、営業として数多くの予餞会でネタ披露をした。
自称「日本一予餞会に出た芸人」。

1993年に自らの芸能事務所「タイタン」を設立。社長には太田光代が就き、この年からテレビ復帰。
1994年には、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』で初の十週勝ち抜いたレギュラーとなり、
『タモリのSuperボキャブラ天国』内の「ボキャブラ発表会 ザ・ヒットパレード」に出演。
この番組で、ネプチューン、海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)をはじめとする
当時キャブラーと呼ばれた若手芸人たちの出世頭となり、再ブレイクのきっかけをつかむ。
『黄金ボキャブラ天国』では初代名人に。当時のキャッチフレーズは「不発の核弾頭」。

ネタは太田が書いているが、『ボキャブラ』のネタは田中が多く書いていた。もっとも
田中が作っていたのはダジャレの部分だけであり、そのダジャレを際立たせるコント部分は
太田が作っていた。
テレビ番組のレギュラーを多数抱えるが、タイタンの定期ライブや雑誌の連載、本の出版なども
こなしている。漫才のネタは主に太田が作っている。時事ネタや社会風刺を題材としたものが目立ち、
「社会派漫才」などと呼ばれる。太田は時事ネタを扱うのは、ネタが枯渇しないからだと語っている。
芸能人の活動の中心がテレビとなっている中、太田は「ラジオで笑いが取れる芸人になりたい」と、
漫才への思いを表している。漫才のネタ作りは「田中がスクラップした新聞記事を太田が読んで
ボケて行き、田中はそれに対してツッコミをいれつつネタを書き留めていく手法をとる。そのこと
から太田は田中のことを「書記」と指した事がある。またこの作業は太田家のリビングで行われる。


プライベートでは田中は太田を「光」と呼び、太田は田中を「小僧」と呼ぶ。田中が仕事のときに
太田を「太田さん」と呼ぶのは仕事とプライベートの区切りをつけるためであり、太田が田中を
「田中」と呼ぶのは、「小僧」では誰のことかわからないと感じているため。

太田は田中との比較において絶対的な自信を持っており、様々な機会を捉えてはギャグの一つと
して田中への非難・痛罵を繰り返す。テレビなどでは、太田が田中を非難することが多いが、
田中が「キレる子供」と揶揄される位すぐに解散を口にするので、いつも太田が謝って収拾
している。前述に基づくエピソードとして、新人時代に田中がネタをとちってしまい、
ネタ終了後の楽屋で太田が田中を責めたが、田中が「次の舞台でネタを間違ったらコンビ解散!」
と言い放ち、何故か逆ギレされてしまう。しかし太田は「こんな事で解散されちゃ、たまった
もんじゃない」と田中を必死になだめたということがあった。



【受賞歴】

1993年:NHK新人演芸大賞受賞
1994年:日本映画プロフェッショナル大賞・新人奨励賞を太田光が受賞
1997年:国立演芸場花形演芸会 銀賞受賞
1998年:国立演芸場花形演芸会 金賞受賞
1998年:ゴールデン・アロー賞芸能賞受賞
1999年:浅草芸能大賞新人賞受賞
2000年:国立演芸場花形演芸会 審査員特別賞受賞
2000年:笑芸人大賞 銀賞受賞、ちなみに金賞はビートたけし
2001年:国立演芸場花形演芸会 特別大賞受賞
2006年:万年筆が似合う著名人 芸能・ファッション部門を太田光が受賞
2006年:芸術選奨文部科学大臣賞放送部門受賞
2007年:ゆうもあ大賞を太田光が受賞
2008年:日本大学藝術学部 日藝賞受賞
2012年:喜劇人大賞特別賞受賞


【パーソナルデータ:太田 光】

埼玉県ふじみ野市出身、大東文化大学第一高等学校卒業、日本大学藝術学部中退・
(本人によると、退学届を出していないため実際には除籍扱い)。
高校時代は誰とも話さなかったらしく、友達が一人もいなかったが、「陰口を言われるのが嫌」
という理由で学校を休まず皆勤賞を取った。休み時間は、図書室に入り浸り、「図書室の不良」
を自称していた。修学旅行では約10冊の小説を持参し、1人で全部読みきった。大学に進学する
と初対面の学生にもハイテンションに振る舞い、友達を作ろうと必死であった。
1988年3月、日本大学芸術学部(日芸)演劇学科で知り合った田中と爆笑問題を結成。
デビュー間もない1990年、ビートたけしの代打で『ビートたけしのオールナイトニッポン』に
出演した際、ギャグで「たけしは風邪をこじらせて死にました」と発言し、以後しばらくの間、
ニッポン放送を出入り禁止になった。
1990年9月26日、当時同じ事務所(太田プロ)だった元タレントで現在のタイタン社長である
太田光代(当時は松永光代)と結婚。

極度の偏頭痛持ちで、左眼のかすみと嘔吐を伴う偏頭痛を中学生時代から頻繁に経験しており、
頭痛薬を服用している。
恐妻家。妻の光代は豪快な人物で、彼女との奇妙な結婚生活はエピソードに事欠かない。
一方、「将来は夫婦漫才をやりたい。タイタンは元々夫婦漫才をやるために設立した」とも
発言している。光代からは「ピーちゃん」または「アーリン」(「ダーリン」の変形。
と呼ばれている。彼女と同棲当時、些細な喧嘩から腹部を蹴られて吹っ飛んだことがあり、
内臓打撲で負傷した。
父親は太宰治に自作の小説を渡した、母方の祖父は島崎藤村の書生、母は永井一郎と昔つき
あっていた、妻の光代は松永久秀の子孫であるなど、家族についても語っている。
父親は建築士であり、叙々苑の店舗設計を請け負っていた。父親には書道の趣味があり、看板や
商品に使用されているロゴを書いたのも父親である。
計算が大の苦手。2桁の足し算の暗算すらまともにできないという。かつてアルバイトでレジ係を
していたことがあったが、釣り銭を適当に渡していたのがバレてすぐに解雇になった。
子供の頃、エレクトーンを習っていた。
立川談志以外、師匠と呼ぶ人はいない。
一人っ子。

尊敬するビートたけしに影響を受けた、最近起きた著名人の不祥事や事件をネタにするブラック・
ユーモアを得意とする。
テレビ番組やライブでの登場時、岡本太郎の「芸術は、爆発だ!」や『オレたちひょうきん族』
の「タケちゃんマン」にて明石家さんま扮するパーデンネンの「パァー」を彷彿させるような、
両手を広げたおどけたポーズ(歌舞伎の形態模写)をとる。

サザンオールスターズの大ファン。他に好きな歌手はジャニス・ジョプリン、
スティーヴィー・ワンダー、谷村新司等。学生時代はニューミュージック、洋楽を好んで
聴いていた。なお、サザンオールスターズの桑田佳祐とは、メールのやりとりをする仲であり、
桑田は太田のことを、かつて担当した番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』
から、「総理」と呼んでいる。
相方の田中と意見が合うことは少ない。というよりも芸風として意識的に田中と意見を合わせ
ないようにしているらしい。田中が「椎茸嫌い」だったという理由で、自らの「椎茸嫌い」を
克服するなど、徹底している。
ヘビースモーカーでタバコを多い時には1日に40本を吸うことがある。しかし、2008年の人間
ドックでの肺検査(呼吸機能・胸部CT・喀痰細胞診)では異常が見られなかった。
大変な読書家(唯一の趣味が読書)で、多忙にも拘らず年100冊を超えるペースで本を読む。
敬愛する作家にヴォネガット、アーヴィング、サリンジャー、カポーティ、太宰治、宮沢賢治、
向田邦子、司馬遼太郎など。高校時代の愛読書は亀井勝一郎、島崎藤村。
ヴォネガットファンとして有名で、事務所の名前「タイタン」や飼っていたオカメインコの
名前「キルゴア」はヴォネガットの作品に由来するもの。

一番大好きな時間は「テレビ番組の収録等で、みんなでワーワー話をしている時」、二番目に
好きなのは「家で本を読んでたりする時間」だという。



【パーソナルデータ:田中裕二】

東京都中野区 鷺宮出身。東京都立井草高等学校卒業、日本大学藝術学部中退。
早稲田大学第二文学部も受験したが、受験日を1日間違えるという致命的な失敗を犯してしまった。
その失敗の教訓を得てか、一浪を経て、日本大学藝術学部(日芸)演劇学科に合格し
太田と出会う。
日芸在籍時には、マキノ雅弘が主催していた私塾にも通っていた。
また、同時期に大学の先輩とお笑いコンビ「東京ギャグポンプ」を組んでTBSの昼の番組の
レギュラーを持っていたが、売れずに2ヵ月弱で解散。当時の芸名は「白木屋みのる」
(背が小さいことから白木みのると居酒屋の白木屋をもじってつけられた)で、ボケ担当。
コンビ名・芸名を考案したのははらみつお。当時の相方は編集者(2006年時点)をしている。
1988年3月に漫才コンビ「爆笑問題」を結成。コンビではリーダーを担当しているが、
田中が自ら立候補したのではなく、太田が決めたものである。

2000年正月放映の『号外!!爆笑大問題』で、田中が所属事務所が入居しているビルの1階の花屋に
勤務する9歳年下の女性の自宅を訪れ、両親にあいさつしたと太田がバラし、メディアが
一斉に扱った。同年3月24日にその女性と結婚。その後、二世帯住宅を建てた。
2000年9月12日、睾丸肥大のため都内の病院に入院。10月9日に左側の睾丸摘出手術を受けた。
ちなみに摘出した睾丸を病理診断・研究したのは向井千秋の夫である向井万起男
(慶應義塾大学病理専門医)だったとのこと。
2009年10月2日、自らの離婚を発表した。その後、前妻が臨月に入っていることが報じられた。

「そんなわけねぇだろ!」「やめろよ!」「うるせぇよ!」「いい加減にしろ!」「しつけーよ!」
などのストレートなツッコミをする。しかし、太田の無軌道なボケも拾い上げて対応し、
かつテンポが良いため、太田にとって貴重な存在である。また、他の芸人のアドリブによる
ボケにも瞬時・的確にツッコんでいるが、ノリツッコミは恥ずかしくてできないとのこと。
かつては太田のボケのほぼすべてにツッコミを入れていたが、近年は太田があまりにも無軌道な
ボケをすると流すこともある。

近年は俳優としてドラマや映画に出演することも多い。

実兄は「コム・デ・ギャルソン オムオム」のデザイナーを務め、現在は自ら立ち上げたブランド
「KONTRAPUNKT(コントラプンクト)」のデザイナーである田中啓一。実姉は同じくデザイナーで
「アツキオオニシ」や「ピンクハウス」を手がけた田中里美。父は自ら立ち上げた
「人類生き残り研究会」の会長。母方のいとこにならはしみきがいる。おばは東京都杉並区阿佐谷
にある商店街「阿佐谷パールセンター」の名付け親。

チェッカーズ、小泉今日子、田原俊彦、近藤真彦、佐野元春、サザンオールスターズ、
プロ野球ファミリースタジアム(ノーヒットノーランを達成したことがある)、松田聖子、
安倍なつみの大ファンである。
無類の猫好き。自身も猫を飼っており、猫に話しかける時は赤ちゃん言葉になる。
ミミズと椎茸が大嫌い。シソやミョウガ、セロリなどの香りが強い野菜や軟骨の焼き鳥、クラゲの
食感も苦手で、食べ物の好き嫌いはかなり多いらしい。好物はスイーツ。

30歳になるまで女性と付き合ったことがなく、24歳のときに歌舞伎町の高級ソープランドで
初体験をすませた。
大学時代はかなりのナルシストで、自分に想いを寄せている女性を田中自身も気にかけており、
十分カップルになりえたのだが、「僕は皆のアイドルだから1人のものになりたくない」という
理由で付き合わなかった。
大の競馬ファン。2007年、第67回皐月賞予想で7番人気のヴィクトリーに本命印を打ち、予想を
的中させた。実際に馬券も購入しており、馬連94,630円(購入額5,000円)と3連単1,623,250円
(購入額200円)を的中させ、計7,978,000円を手にした。
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