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所属事務所:吉本興業
メンバー  :小川暖奈(1990.2.7生まれ・ボケ)
        松浦志穂(1984.6.13生まれ・ツッコミ)

共にNSC14期生で、出会って一週間でコンビ結成。
同期にあわよくば、ダイタク、あげは等。
かわいすぎる芸人として小川が話題に。かわいい顔とは裏腹にかなりの毒舌漫才をする。


【パーソナルデータ:小川暖奈】

愛知県出身。
お笑いを目指したキッカケは、飼い猫が死んでしまって傷心で落ち込んでいた時に
ふと見たお笑いで、自然に笑っていてあんなに悲しみのどん底にいたのに笑えるなんて
お笑いってすごい!と思ったから。
高校時代にツートーンというコンビでお笑い甲子園に出場している。


【パーソナルデータ:松浦志穂】

山形県出身、最終学歴、山形県立鶴岡北高等学校卒業。
高校の2年先輩に三浦唯歌がいる。
NSCで歌組を卒業した翌年にお笑いコースを受講。
LLR伊藤の伊藤軍団に所属している。
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所属事務所:ナチュラルエイト
メンバー  :上田晋也 (1970.5.7生まれ・O型・ツッコミ)
        有田哲平  (1971.2.3生まれ・血液型不明・ボケ)


2人は熊本県立済々黌高等学校の入学式当日に出会い、共通の趣味であるプロレスをきっかけに
意気投合。そろってラグビー部に入部し親交を深める。2人は非常に仲がよく、ラグビー部では
コンビを組みよく部員を笑わせていたという。顧問の先生や部員におかしなあだ名を付けたり
2人が「事件」と呼ぶ数々の笑える出来事が起こったりした済々黌ラグビー部こそが、
くりぃむしちゅーの笑いの原点であったと本人達は言っている。
当時の上田はいわゆる学校の番長的存在で、有田はその上田に付いていくような感じであった。
有田によれば、上田は硬派らしく済々黌で初の童貞番長だったという。

有田は高校卒業後、現役で明治大学法学部二部に合格。浪人が決まった上田から
「一緒に早稲田に入ろう」と誘われ、有田は大学に入学せず2人別々の予備校に通う。1年後、
上田は早稲田大学教育学部国語国文学科に合格するも、有田は早稲田大学に不合格。
有田は自分と同じように上田がまた浪人してくれると思っていたが、上田から 
「お前は立教がいい」と言われ、上田は早稲田大学に、有田は立教大学に入学した。

上田は大学を中退。芸能事務所に履歴書を送る日にたまたま久しぶりに有田哲平に会ったこと
が縁となり、上田は有田を芸能界に誘う。有田も大学を中退。
1991年にコンビ『海砂利水魚』を結成しコント山口君と竹田君の付き人としてスタートする。

1992年から開始したフジテレビ系のバラエティ番組『ボキャブラ天国』シリーズに出演、
爆笑問題ネプチューンら多くの芸人と共に人気を博す。

2001年10月にコンビ名を「海砂利水魚」から「くりぃむしちゅー」に改名。
改名に至った発端となったのは2000年、『新・ウンナンの気分は上々。』にてさまぁ~ず(当時バカルディ)との改名対決である。

バカルディとは改名対決の前から険悪(という設定)で、お互い「もう二度と出てくるな」
「一緒に出ると好感度が下がる」などさんざん言い合っていた。そこで内村光良により
「それならいっそのこと勝負をつけよう、負けたほうには罰を」との提案がなされ、
「対決をして負けた方は改名」という対決企画が組まれることになった。最初はバカルディが敗北し
さまぁ~ず』に改名させられる。しかし改名後、さまぁ〜ずは徐々にブレイクし、期間限定改名
だったはずが、元に戻す必要性がなくなってきた。そこで、再びコンビ名改名ビーチバレー対決が
行われるが、今度は海砂利水魚が敗北し、『くりぃむしちゅー』に改名する運びとなった。

名前の由来は有田の好物であるクリームシチューから。上田がコンビ名をあまり気に入って
いなかったこともあって、当初「くりぃむしちゅー」は半年間の期間限定ということだったが
期限切れが近づくにつれ、本人たちも元の名前に戻すかどうか迷い始める。ファンを集めた討論会を
同番組で行ったものの、結局結論は出ず、最終的には内村がビリヤードで落とした球の数字が偶数
だったら「くりぃむしちゅー」、奇数だったら「海砂利水魚」というゲームを行い、結果14番が
落ちたため、そのまま「くりぃむしちゅー」を名乗ることになり、現在に至っている。
「改名でブレイクした」という世間の認識に対して、本人達は日経エンタテインメントの
インタビューなどにおいて「改名前から売れ始めていた」と強調している。

お笑い芸人の看板とも言うべきコンビ名を安易に変えてしまった内村はその責任を重く感じ、
その後両コンビ(特にさまぁ~ず)を自身のレギュラー番組などで積極的に起用していった。
これが不遇の時期を過ごしていた両コンビに世間の目に触れる機会を与え、のちのブレイクを
後押しする形となった。

さまぁ~ずとは、改名対決終了後はほどなく和解したという設定。無論実際に険悪だったわけはなく、
番組の演出またはネタである。2組は『内村プロデュース』『ミドル3』などの番組で
仲良く絡んでいる。両コンビが改名に揺れていた2001年8月23日には、『ナインティナインの
@llnightnippon.com』にさまぁ~ず、海砂利水魚が揃ってゲスト出演し、お互いのトークで
盛り上がっていた。


転機となったのは2003年。上田がテレビ番組『虎の門』の1コーナー「うんちく王決定戦」で優勝
一躍脚光を浴びる。以降上田は「うんちく王」の称号と共に、薀蓄芸と呼ばれる芸風で数々の
メディア出演や執筆活動を行う。「たとえツッコミ」も知られるようになった。
有田も上田の人気を僻みつつも、同年から『内村プロデュース』にピンで度々出演し、
存在感を発揮。また、『ロンドンハーツ』で女性にナンパされる企画で素の面白さが茶の間に伝わり
好評につきスペシャル番組で取り上げられるなどした為、認知度が高まった。その一方で、
趣味の格闘技好きを活かしてCSチャンネル「サムライTV」でレギュラー番組を担当した。

その後徐々にコンビでの番組出演の機会も増加。再度訪れたお笑いブームの波にも乗って、
2004年には多数のレギュラー番組を抱える売れっ子となった。

2009年9月、プライムからチーフマネージャー大橋由佳が設立した「ナチュラルエイト」へ移籍。




【パーソナルデータ:上田晋也】

熊本県熊本市出身、早稲田大学教育学部中退。
実家はプロパンガスの業者。
3人兄妹の次男。兄の上田啓介は熊本で番組プロデューサー兼ローカルタレントをやっており、
全国放送の番組としてはフジテレビの『ものまね紅白歌合戦』に「上田晋也のそっくりさん」
として参加した。それ以外にも『くりぃむナントカ』に数回出演しており、公式ホームページには
上田が居るべきところに兄が写っている。兄はラジオ番組のピンチヒッターを務めたり、
『おしゃれイズム』に出演したりなど頻繁に全国放送の番組に出演したがっている兄を上田は
「日本一性質(たち)の悪い素人」と呼び、迷惑がっている。また、兄は自身の高校時代の
同級生と組んでM-1に出場、あえなく1回戦で落選した。他に妹が1人。

天然パーマである。
芸能界きってのうんちく王。
高校時代はいわゆる学校の番長的存在で、有田はその上田に付いていくような感じであった。
高校を卒業後、一浪を経て、早稲田大学教育学部国語国文学科に入学するも中退。お笑い芸人に
なることを決意し、事務所に履歴書を送る前日に、偶然、友人宅で有田哲平と再会し2人で履歴書を
提出することになり、デビュー。上田本人がネタを見て1度も笑ったことが無いという
コント山口君と竹田君の付き人としてスタートする。当時のコンビ名は、
海砂利水魚 (かいじゃりすいぎょ)。当初は海砂利水魚というのが落語の「寿限無」から
出てきた言葉だということを知らなかった。

2004年12月14日に同郷・熊本県出身の一般人女性と結婚。2006年6月7日に第1子となる女児が誕生
していた事を、同月11日放送の日本テレビ系列『おしゃれイズム』内で発表。
2010年12月1日、男児誕生を「ナチュラルエイト」サイトにて発表した。

長淵剛、松田優作、仲間由紀江の大ファンである。


ファッションセンスが悪く、よく他人に笑われるが開き直ることにしている。結婚後は、家を出る
前に妻にファッションチェックをしてもらうようになったが、3回に1度は服を変えるよう言われる。
いわゆる「老け顔」で、デビュー当時から顔の見た目が変わっていない。有田は若手時代に「なんであんな年上の人とコンビ組んでるの?」とよく聞かれたという。

高所恐怖症かつ閉所恐怖症であり、観覧車に乗っただけでも身動きがとれなくなる。

お笑い芸人になっていなかったらアナウンサーになりたかった。

過去にアンジャッシュの児嶋一哉を居候させていた。その時の児嶋は勝手に冷蔵庫を開け食べ物を
食べていたり、上田のベッドを占領していたりしたが、上田は一切怒らず寝ている児嶋に
毛布をかけてやっていたという。
アンタッチャブル柴田が休養中上田は柴田と一緒に山崎が出てる番組を見ていた。



【パーソナルデータ:有田哲平】

熊本県熊本市出身、立教大学法学部中退。
3人兄弟の次男。弟は放送作家の有田真平、兄は地元で教師をしている。
母は水泳でオリンピックの代表候補になる程の選手だった。現在も熊本県内にある室内プールで
管理者の傍ら、子供達に水泳の指導を行なっている。2008年には、マスターズ世界水泳選手権の
平泳ぎ・シニア部門で6位に入賞した。あまり練習せずに大会に挑んだそうで、もっと練習して
いれば3位以内には入れた、と悔んだという。

父は広告代理店を経営していた。高校生になってからも父親の事を「パパ」と呼んでいたと。
(そう呼ぶように言われていた)。しかし、有田の大学入学後に会社が倒産、授業料を滞納する
事態に。それに関する父親からの報告と、有田からの「大学を中退してお笑いをやりたい」旨の
報告とが偶然にも重なり、有田は勘当を覚悟したが、父親に「学費を納めなくていいなんて
お前は孝行息子だ。それにやりたい事を見つけるなんて素晴らしい!」と絶賛されたという。
後に知るが、その時点で会社が傾いていたらしい。父親の事業破綻後に両親は離婚したが、
有田はその事実を知らず、当時レギュラー出演していた『王様のブランチ』の中継コーナーで
実家を訪ねると、有田家の表札が「長谷川」に変わっており、大変ショックを受けたという。

いとこは小説家の鵜波美布(代表作に『武運』等)。

叔父は政治学者で、日本初のノーベル賞選考委員やスウェーデン王立アカデミーの会員を務めた
矢野暢。「幼少期より、よく両親から『親戚にいる大学教授の叔父さんを見習え』と言われて
いたが、その人がセクハラで訴えられた。」というネタをよく使う。

高校のラグビー部時代、試合では上田がレギュラーであったのに対し、有田はベンチ要員だった。
その上、ラグビーのルールをよく理解しておらず、ある試合で上田がボールを持ちトライするべく
ラインに向かって走ると、有田はチームメイトである上田にタックルを仕掛けたという。
初めて出場した試合では試合慣れした様子を出そうと野次を飛ばし審判に注意された。
その後気まずさを隠して歩いているとサイドフラッグに引っかかり右腕を折る。
恥ずかしくて名乗り出られず、数プレーの間左手だけでボールを扱おうとするも上手くいかず、
事情を知らないチームメイトから注意された。また、ある日ラグビー部の皆で将来の夢を話して
いた時、他の部員は「弁護士」「起業家」などと真面目に目標を述べていたが、有田は
「俺は光GENJIに入る!」と真顔で豪語し、一同を呆れさせた。

に大学での生活に馴染むことが出来ず、友人も殆ど作れなかったことから、しばしば一人ぼっちで
キャンパス内のベンチに座り、煙草を吸いながら時間を潰していたといい、最終的に中退に
至ったのも、この事に起因した部分もあったという。

カジノが好きで、海外旅行は専ら韓国やアメリカ等のカジノがある国が多い。韓国のカジノで
熱くなりすぎて負けが込み、現地に居合わせた見ず知らずの日本人や、当時ほぼ初対面であった
美川憲一にお金を借りた。そのお金は、日本に帰国してすぐに二人の元へ返しに行ったという。

菅野美穂の大ファン。2009年1月19日放送の『しゃべくり007』で念願の対面を果たした。
大のプロレスファン。
TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の大ファンで。。

アンタッチャブルの山崎弘也を可愛がっており、山崎と同じマンションに住んでいる。
なお、山崎は後輩なので有田より下の階に住んでいるという。
おぎやはぎの矢作兼とも大変仲が良く、山崎を含めた男三人で毎年旅行に出かけているほど。
番組収録の合間に山崎やおぎやはぎ、次長課長等の後輩芸人を集めて、芸に対するアドバイスや
ダメ出しを行う(「有田塾」と呼ばれている)が、「全くためにならない話ばかり」している。
また、土田晃之には「『銭形金太郎』のロケで泣け。」とアドバイスをした。
その一方で、的確なアドバイスもしており、土田は有田に言われた「『好きな芸人は誰ですか?』
という街頭インタビューがあった時、お前の名前は挙がらないかもしれない。しかし、
『土田の事を面白いと思うか?』という問いで、9割の人が面白いと答えてくれる様な芸人になれ。」
という言葉は、雛壇芸人等のサブとして活動していこうと覚悟を決める際に重要なアドバイス
だったと語っている。

共演の多いネプチューンの堀内健からは、「これからの事も、お笑いの事も真剣によく考えているし
芸術を見るセンスもある。とにかく凄くいい奴。」と評されている。
相方・上田の2人の姪(上田の実兄・上田啓介の娘)を大変可愛がっており、上田を心配させている。
有田曰く、「どんなにユルいギャグを言ってもウケるから気分がいい。」との事で、休日には2人と
遊ぶ為だけにわざわざ熊本まで帰省し、当時流行していたナルミヤ・インターナショナルの
ジュニア向けブランド服「メゾピアノ」等をプレゼントした事もあるという。


2008年、DVD『特典映像』で監督としてデビュー。

所属事務所:吉本興業
メンバー  :山里亮太 (1977.4.14生まれ・AB型・ツッコミ)
        山崎静代 (1979.2.4生まれ・A型・ボケ)



2003年6月にコンビ結成、コンビ名はザ・プラン9のヤナギブソンが命名した。
同年M-1グランプリ準決勝進出。翌2004年大会では、無名ながら決勝進出(麒麟枠)
、準優勝を果たした。それがきっかけとなりテレビ番組やラジオ、CMなどに出演。
結成2年で多数のレギュラー番組、更に関西ローカルながら冠番組までも獲得した。
2005年後半に活動拠点を大阪から東京へ移した。2005年のM-1グランプリにも出場するが最下位。
敗因は山里曰く「稽古不足」。以後2006年、2007年のM-1グランプリへの出場を見送る。
2006年大会の不参戦について、山里は自身のブログで「ただしっかりと漫才、ネタとは
向き合い続けます!」と語っている。2008年には3年ぶりに参戦するも準決勝敗退。
翌年の2009年大会には4大会ぶりの決勝進出を果たしたが8位に終わった。
山里はガチガチに緊張したと語っている。後日、山里は審査員の松本人志から
「すべてが0.5秒遅れていた」と敗因を指摘され、ネタを自分で見直してその通りだと反省した。
また、山里によると「自分達のベストバウトは2009年の準決勝だった」らしい。山崎も同調している。


お笑いコンビ「足軽エンペラー」解散後、ピン芸人「イタリア人」として活動していたが
鳴かず飛ばずだった山里が、当時「西中サーキット」を解散し「山崎二宮」として活動していた
山崎をケーキバイキングに誘い、自分で考えた漫才のネタを書いたノートを渡しコンビ結成を誘う。
山崎は当初告白されると思い戸惑いながらノートを読むが字が下手だったため「顔も字も気持ち悪い」
と思ったという。しかし、「当時の相方二宮が男前でネタに集中できなかったが山里なら
その心配はない(「生理的に受け付けないルックス」とまでTVで公言している)」と考え
コンビを結成した。

山里によると山崎が「フラガール」の撮影をしてた頃は本気でコンビ仲が悪かったという。


【受賞歴】

2004年 ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞
2004年 M-1グランプリ2位
2005年 上方漫才大賞優秀新人賞
2005年 M-1グランプリ9位
2005年 ゴールデン・アロー賞新人賞
2009年 M-1グランプリ8位



【パーソナルデータ:山里亮太】

千葉県千葉市花見川区出身、関西大学文学部教育学科卒業。

【パーソナルデータ:山崎静代】

京都市福知山市出身、聖和短期大学卒業。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :大地洋輔 (大地洋介 1972.7.13生まれ・A型・ツッコミ)
        大谷ノブ彦 (大谷伸彦 1972.6.8生まれ・B型・ボケ)


2人は大分県佐伯市出身。中学校時代の同級生である。中学時代、大谷は誰ともしゃべらず1人で
いたが、クラスで人気者だった大地が声をかけたことがきっかけで、共に『コサキンのラジオ』の
リスナーであったことから意気投合した。卒業後は別々の道に進んだが、銀座で偶然肩がぶつかり
再会したことがきっかけとなり、再び親交を深める。
1994年、吉本興業のオーディションに合格しコンビ結成。

コンビ名の由来は、「大地」、「大谷」、「大分県出身」の3つの「大」の字があったため。
また、英語でコンビ名を表記する場合、よく使用される「dainoji」は誤った表記であり、
「dienoji」が正しい表記である。「die」は文字通り英語で「死」を表している。兄の大地大介
(ex.BEYONDS)がINDIES MAGAZINE vol.12でのインタビューでダイノジのコンビ名の由来は
大地の父親が大の字になって死んでいたからと話されている。第一発見者は大地洋輔である。
父親が死んでいるのを発見した際、なぜか分からないが、「ヤバイ」と思ったらしく、
慌てて学生服に着替えたと言うエピソードも話されている。英字表記でdieを使うのは父親の
死からコンビ名にしたためと思われる。

1999年から放送開始した『爆笑オンエアバトル』(NHK)に初期から出演。好成績を収めた芸人の
称号であるゴールドバトラーにも認定されている。また、番組内の年間合計キロバトル数
ランキングでは2000年度、2002年度で1位を獲得している。このランキングで2回1位を獲得したのは
歴代でもダイノジのみである。

『M-1グランプリ2002』で決勝進出者が決定する時、審査員たちは最後の8組目を選出するに
あたってダイノジにするか、スピードワゴンにするか意見が分かれ、この論議だけでかなり長引い
たらしく、長い議論の末、僅差でダイノジの決勝進出が決定し、吉報を受けた瞬間大谷は号泣した。
それを聞いて最初に「おめでとう!」と大谷に駆け寄ったのは、大谷の大親友で、不幸にも同じ
当落路線にいたスピードワゴンの小沢一敬であった。スピードワゴンは自分達が決勝にいけない
悔しさを惜しみ、ダイノジの決勝進出を称えた。だが、スピードワゴンは、ワイルドカード
(敗者復活戦)で決勝進出。その発表は、ダイノジの出番直前で、それを聞いた大谷は
スピードワゴン、きたー!」とガッツポーズをとっていたという。

決勝では、大谷が緊張のあまりネタを一つ飛ばすミスをしてしまう。大谷は後に「審査員の豪華な
顔ぶれを見たら舞い上がってしまった。漫才でネタを飛ばしたのはこのM-1グランプリが初めて」
と語っている。そのミスのあまりにものショックに、本番終了後2人でタクシーに乗ったものの、
意味もなく2人一緒に途中の渋谷で降りて立ちすくんでしまったという。また、翌年から仕事が
減ってしまい、本人達も相当引きずったらしい。その後2004年にラストイヤーを迎えるまで
毎年挑戦したものの、全て準決勝敗退に終わる。


同級生ではあるがお互いのことをさん付けで呼ぶ。これは馬鹿そうな奴がさん付けで呼び合って
いたら面白いという考えである。これは大谷と小沢一敬(スピードワゴン)が考えたもの。

【受賞歴】

2002年 M-1グランプリ8位


【パーソナルデータ:大地 洋輔】

大分県立佐伯鶴岡高等学校出身。
本名:大地洋介

大地はダイチ→大地 洋介→おおち→大地 洋輔、と改名している。

2003年9月12日、入籍。

「日本エアギター選手権2006」に出場し、2年連続世界大会4位の金剛地武志と同点優勝。
さらに日本代表としてフィンランド・オウルで行われる「世界エア・ギター選手権2006」に出場し、
初出場にして初優勝の快挙をとげた。
2007年9月、「第12回世界エア・ギター選手権」で史上2人目となる大会2連覇を達成した。



【パーソナルデータ:大谷 ノブ彦】

大分県立佐伯鶴城高等学校、明治大学政治経済学部出身。
本名:大谷伸彦
ビック谷→大谷 伸彦→大谷 ノブヒコ→大谷 ノブ彦と大地同様、改名している。
2006年3月21日 一般女性と入籍。入籍した時、すでの夫人は妊娠しておりできちゃった婚。

大谷は怪談話を得意としているが、霊感が全くないので幽霊を見たことはない。

大谷はDJとして多くのイベントにゲスト出演しており、自身のプレイ中には後輩芸人にバック
ダンサーをやらせていた。この後輩芸人達は自らの志望で参加したのではなく、
「先輩芸人の命令には絶対服従」という大谷からの無理強いであった。
「自分達のネタを作る時間が欲しい」「アルバイトに行かなければいけない」と嫌がる後輩
芸人達にイベントの何週間も前から猛練習をさせ、ミスをすると大谷は激怒し、さらには
長時間にも及ぶ説教が待っていた。その上、嫌々ダンスをやらされた後輩芸人には小銭程度の
現金を当日渡されただけだった[4]という。他にも数多くの狼藉を後輩芸人に働いた結果、
その噂は後輩思いの今田耕司の耳に伝わり今田は激怒。当分の間、ダイノジは今田の番組には
出演NGの状態であった。
所属事務所:マセキ芸能
メンバー  :内村光良 (1964.7.22生まれ・AB型)
        南原清隆 (1965.2.13生まれ・AB型)


1985年、横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)の漫才の講義で一緒に組んだのをきっかけ
として、コンビ結成。専門学校時代に2人が仲良くなったきっかけは、互いに大林宣彦の映画が
好きということだった。この時に講師をしていた内海桂子・好江の薦めで、マセキ芸能社所属の
タレントとなる。ウンナンを初めて見た好江は、2人の才能を見抜き、「この2人を絶対に
逃しちゃダメよ!」と涙ながらに言ったという。お笑いコンビとしては『お笑いスター誕生!!』
から本格的な活動を始めた。その頃のコンビ名は「おあずけブラザーズ」であった。

1987年、専門学校の同期生である出川哲朗、入江雅人らと劇団SHA・LA・LAを結成し、演劇役者と
しても活動。内村は、脚本と演出も担当した。

1988年に放送開始したフジテレビの深夜番組『夢で逢えたら』で人気に火がつき、1990年代には
とんねるず、ダウンタウンと共に「お笑い第三世代」としてバラエティ界を席巻し、若年層を
中心に人気を博した。

1990年、フジテレビ系列『とんねるずのみなさんのおかげです』の休止に伴い、後番組のメイン
として2人が抜擢され『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』がスタート。『夢で逢えたら』
のテイストを下地にゲストを交えて作りこんだコントで、一躍全国的人気者になる。
『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』が半年間の放送を終了し時間帯を土曜夜8時に改め
『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』として再出発。時事ネタや人気ドラマ、
ミュージシャンを題材としたパロディーコントで高視聴率を得た。

また、『ウッチャンナンチャンのウリナリ』は、当時の日本テレビのバラエティー黄金期を支えた
中心的な番組で、番組の全盛期である1996年〜1999年まではほとんどの回で視聴率が20%を超えて
いた時期もあった。そのため、金曜日に東京ドームの巨人戦が組まれていた場合は巨人戦を
優先し番組を休止していたが消化試合の時は番組を優先して放送した。この頃から、
ウッチャンナンチャンは、若者だけでなく老若男女幅広い年齢層から支持を得て、お笑い界の
トップへと上り詰めた。また、今でも日本テレビには年間数十件ではあるがウリナリの復活の
要請を記した手紙がくるという。『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら
100万円!!』もイライラ棒が大人気となり、当時のテレビ朝日の看板番組となるなど、民放各局で
人気番組を生み出し、一躍1990年代を代表するお笑いコンビとなる。

近年では、ウンナンの番組から生まれた1企画のみを特番として、不定期に放送する例が増えている

現在は内村がコントやバラエティ番組で後輩芸人との共演、南原が落語や狂言といった伝統芸能
への挑戦やスポーツキャスターなど、単独での活動が多い。

ウッチャンナンチャン」というコンビ名は、南原の思い付きから命名。最初は
「ウッちゃんナンちゃん」表記だった。まだコンビ名で迷っていた頃、お笑いスター誕生の
番組収録時にコンビ名を変更したい旨を告げると、番組スタッフに「もう『ウッチャンナンチャン』
で作ったから(変更できない)」と断られ、そのまま定着してしまった。

現在、多くのお笑い芸人たちのネタの中で使われている「(ショート)コント、○○」と、
タイトルを言ってからコントに入るスタイルは、彼らが始めたと言われている。
この為「ショートコントの特許を取得し、他の芸人はショートコントを披露する度に、
ウッチャンナンチャンに7円払っている」という都市伝説が流れた。

ネタ作りは内村が自分のギャグだけ書いて南原の台詞を部分を適当(「ああ」、「うん」など)に
しておき、稽古のときに南原が台詞の部分を作り面白い部分を拾い上げていき徐々にネタにしていく
という方法で作られていた。また、ウンナンがコントや番組で使用したギャグはほとんどが、
劇団で一緒だった入江雅人が考えたギャグをパクって使用していたと発言した事がある。その際
出川哲朗も同席していたが、内村曰く、「テッチャンのギャグは面白くなかったからパクらなかった」
と説明していた。それはもちろん逆で、「ヤバイよ」や「チェン(出川だけが使用している内村の
あだ名)」をテレビでモノマネしている。

他のお笑いコンビに比べて、漫才におけるボケとツッコミのような役割がハッキリしないコンビ
である。『気分は上々』の番組内でインターネット投票により「どちらがボケか?」をファンに
決めてもらい、この時は「南原がボケ」という結果になった。しかし、本音は2人ともツッコミに
なりたい様子だった。自称は、それぞれ内村が「天然」、南原が「ハプニング」。よってボケと
ツッコミはケースバイケースとされている。逆説的に考察すると、両名とも漫才やフリートークで
ボケ、ツッコミがこなせる高い技量を持ったオールラウンダーであるとも言える。
南原は『ウンナンタイム』で、2人のスタイルを「スイッチ型」である、と表現していた。

直接の師弟関係に当たる、所謂「師匠」がいるわけではないが、内海桂子・好江は、2人の師匠的な
存在である。好江からは「何があっても仕事に穴を開けるな」との教えがあったが、好江の葬儀には
2人共仕事の合間をぬって駆け付けた。

『夢で逢えたら』で共演し、ほぼ同期であるダウンタウンとは、松本人志曰く「戦友」であり、
「ウンナンが売れてうれしい事はないが、かといって売れなくなるのは嫌」と語っている。


【受賞歴】

『お笑いスター誕生!!』関連
1985年5月11日 第5回オープントーナメントサバイバルシリーズ 準優勝
1986年1月11日 第6回オープントーナメントサバイバルシリーズ 第3位
1986年7月 5日 第7回オープントーナメントサバイバルシリーズ 優勝

1988年 第26回ゴールデン・アロー賞芸能賞 「新人賞」
1990年3月 平成元年度第6回浅草芸能大賞 「新人賞」
1991年 第29回ゴールデン・アロー賞芸能賞
1992年 第16回日本アカデミー賞「新人俳優賞」「話題賞(俳優)」(映画『七人のおたく』で)



【パーソナルデータ:内村 光良】

熊本県人吉市出身。横浜放送映画専門学院卒業
愛称:「ウッチャン」
実家は酒屋。
デビュー当時は南原と風貌が似ていると指摘され、差別化する為に伊達メガネをかけていた。
映画が好き。
個人的にさまぁ~ずが好きで、「内村さまぁ~ず」も定期的に彼らと飲みに行きたいから始めた
番組だと冗談まじりに話している。
温厚な性格で、テレビ上で毒を吐くことはあっても裏では優しさの鬼と言われている。
ダウンタウンの松本とは非常に仲が良い。
運動神経が良い。

2005年4月23日 テレビ朝日アナウンサー徳永有美と入籍。
2009年6月11日 長女が誕生。


【パーソナルデータ:南原清隆】

香川県高松市出身。横浜放送映画専門学院卒業。
愛称:「ナンちゃん」
お笑い芸人として活動する傍ら、近年はスポーツキャスターや記者としても活躍。また落語や狂言
などの古典芸能の舞台にも出演している。

色々な事に興味を持つ好奇心旺盛な性格。テレビ番組の企画では言い出しっぺのせいか周囲から
リーダーを任される事が多いが、極度の「あがり症」で本番前は水を何度も飲んだり、よく嘔吐
いたりする。また、何事にも真面目に取り組むという。
あまり滑舌が良くなく、仲間内から「カミカミ星人」と揶揄されることが多い。しかしひとりの
仕事の時は何故か噛まない。
生まれてから一度も喧嘩をしたことがない。
芸能界屈指のプロレスファンでお笑い芸人になっていなかったらリングアナウンサーになりたかった。

1993年 入籍
2005年 待望の長男誕生。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :浜田雅功 (1963.5.11生まれ・A型・ツッコミ)
        松本人志 (1963.9.8生まれ・B型・ボケ)


2人は小学校、中学校の同級生として出会う。
1982年4月、浜田が競艇選手養成学校の試験に落ち、友人であった松本を誘って吉本興業の
新人タレント養成学校吉本総合芸能学院のNSC1期生として入学。(松本は就職先が決まって
いたが、そこを辞退してNSCに入学した。)。同期生では、トミーズ・ハイヒール・内場勝則・
浜根隆・前田政二などがいる。同年7月に第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクールに
「松本・浜田」で出場し福笑い大賞を受賞し、8月1日~5日のなんば花月に特別出演して
初舞台を踏み、翌月の8月にはフジテレビの笑ってる場合ですよ!のワンコーナー
「お笑い君こそスターだ!」に「ひとし・まさし」で出場し、5周勝ち抜きグランドチャンピオン
に輝き無名ながら注目されるようになる。

1983年4月、同期生のハイヒール・銀次・政二(後に解散)と共に阪急ファイブ・オレンジルーム
で「ごんたくれ」という定期的ライブを開催する。5月にコンビ名を「ダウンタウン」に
改名しNSC卒業後の6月には、なんば花月上席の「フレッシュコーナー」に出演して
劇場デビューを果たす。この時期にはNSCの同期生達はテレビ・ラジオで活躍し、
漫才の新人コンクールでも賞を受賞していたが、世間からまだ知られていなかった彼らは
劇場回りなどの厳しい下積み時代を過ごしていた。


1985年5月、デビュー当時から影響を受けていた紳助・竜介が解散を発表し、その解散記者会見
で島田紳助は、「阪神・巨人やサブロー・シロー・ダウンタウンには勝てない」と語り、
周囲からの注目が多くなり、同年10月に関西テレビの深夜番組「今夜はねむれナイト」の
ミニコーナーとして「ダウンタウン劇場」がスタートし、ラジオ大阪でも
「おっと!モモンガPart2 おもしろREVOLUTION」という初めてのラジオ番組を獲得し
若者や関係者からも徐々に人気を博していった。

1986年5月、若手芸人のホームグラウンドとして「心斎橋筋2丁目劇場」がオープンし、
関西の若者からの支持が多くなり、翌年1987年4月には毎日放送の夕方帯番組「4時ですよーだ」
でブレイクし、関西では人気絶頂となり「夕方の大阪の街は『4時ですよーだ』を観るため
人が居なくなる」と言われ、アイドル的な存在となり人気を得るようになる。

1988年5月、関西では人気絶頂の中で東京のラフォーレ原宿で「おでかけでっせ、
ラフォーレまっせ」というライブを開催すると、500人以上が詰めかけ大成功に終わり、
10月にはウッチャンナンチャンらと共に「夢で逢えたら」が深夜でスタートし、
東京での仕事が増えていく。翌年の1989年4月には、「森田一義アワー 笑っていいとも!」の
レギュラーになり、同年10月に東京進出を成し遂げ、「ダウンタウンのガキの使いや
あらへんで!!」も開始し東京での知名度も大きくなる。


1991年12月、フジテレビで特番で放送されていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」が
レギュラー化され、1993年10月には「ダウンタウンDX」・1994年10月に
「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」がスタートし、現在も続く長寿番組を生み出すようになる。


1997年11月、人気番組であった「ダウンタウンのごっつええ感じ」が急遽打ち切りとなり、
その後はピンでの単独番組が増えてしまいコンビでコントを演じる機会が減ってしまったが、
松本は独自で精力的にコントを制作し「一人ごっつ」・「モーニングビッグ対談」・「
HITOSI MATUMOTO VISUALBUM」などを作り出している。

2011年現在でもコンビで、バラエティ番組・ドラマ・CMなどの色々な分野で活躍している。

【受賞歴】

1982年 毎日放送 素人名人会 名人賞
1982年 第3回今宮こどもえびす新人漫才コンクール 福笑い大賞
1982年 フジテレビ 笑ってる場合ですよ! お笑い君こそスターだ! グランドチャンピオン
1984年 第5回ABC漫才・落語新人コンクール 漫才の部 最優秀新人賞
1984年 昭和58年度 第14回NHK上方漫才コンテスト 優秀賞
1985年 第2回花月大賞 花月新人賞
1986年 第21回上方漫才大賞 新人奨励賞 
1987年 第15回日本放送演芸大賞 ホープ賞
1987年 第15回日本放送演芸大賞 最優秀ホープ賞
1987年 第22回上方漫才大賞 奨励賞
1987年 第7回花王名人大賞 最優秀新人賞
1988年 第23回上方漫才大賞 奨励賞
1989年 第24回上方漫才大賞 大賞


【パーソナルデータ:濱田雅功】

兵庫県尼崎市出身。日生学園第二高等学校卒業。
妻はタレントの小川菜摘。2児の父親。

【パーソナルデータ:松本人志】

兵庫県尼崎市出身。兵庫県立尼崎工業高等学校卒業。
2009年 元タレントの伊原凛と入籍。
2009年10月6日 第一子となる長女が誕生。
所属事務所:タイタン
メンバー  :太田 光 (1965.5.13生まれ・O型・ボケ)
        田中 裕二 (1965.1.10生まれ・B型・ツッコミ)


二人の出会いは日本大学芸術学部の試験会場であり、試験会場で試験官を茶化していた太田を
見た田中は「関わり合いになりたくない」と思っていた(とはいえ田中は、どうせ受からない
だろうと思い込んで、野球のユニフォームを着て受験に臨んでいた)。その後、大学の合格
発表時に偶然再会して田中が「え、こいつ日大受かっちゃったよ」と思い太田に話しかけた所、
太田は受験会場の様子とは全く違い、律儀な受け答えをしていた。また、太田が入学後の最初の
授業でも騒ぎ他の生徒達を盛り上げたが、田中はその雰囲気に乗らなかった。

日本大学時代の取得単位は二人合わせて17単位だった。しかも太田は2単位しかとっておらず、
そのうち1つはスキー合宿の参加者全員にもらえる単位だった。太田は後に、日本大学
芸術学部の教授を「俳優になろうとしてなれなかった奴らの溜まり場。俳優を育てようなんて
なんも思っちゃいない」と批判しては、講義を欠席していた。
中退後の1988年3月に結成。

コンビ名の由来はラテ欄でよく使用されるフレーズ「爆笑」と、本屋でたまたま「問題実話」と
言う本を目にした際、タイトルに「問題」と入れていたことが印象に残っていたことから太田が
命名。また、カタカナ名のコンビが多いため目立とうとしたのも理由の一つ。
渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会でデビュー。その場で太田プロにスカウトされる。
ホンジャマカ、浅草キッドなどと共に「お笑い第三世代と第四世代の狭間の世代の代表」と
言われる。1988年7月頃に『笑いの殿堂』でテレビデビュー。以降順調にレギュラーを増やし、
若手芸人のホープとなる。ショートコント全盛の時代に、「進路指導室」「東京の不動産屋」
などの作り込まれたコントで注目を集めるが、次第に漫才を主体とするようになる。
太田の毒に満ちたボケと田中のストレートなツッコミという正統的漫才で人気を集めた。
1990年に太田プロから独立。しかし、この独立は一方的に辞める形だったため、太田プロの怒り
を買うことになり、一時的に仕事がなくなりテレビからも姿を消す。いわゆる干された状態
だった。辞めた理由については、自分達のやりたい仕事がしたかったから、人気者となった
二人を当時の担当マネージャーが唆した、など諸説あるが、このことについて自ら話したりネタ
にすることはなく、周りもその話題に触れることはない。太田はこのことについて、当時は
面白ければ仕事がなくなることはないだろうと思っていたと語っている。この時期は、
田中は主にコンビニのアルバイトで、太田は妻・太田光代のパチンコやパチスロでの稼ぎで
生計を立てていた。太田は暗算が非常に苦手で、レジのバイトをすると客から苦情を
言われないようにと釣銭を多く渡す等、まともにアルバイトせず家に引き篭ってファミコン
漬けの日々だった。また、田中が売れ残ったコンビニ弁当を届ける際にも顔を出さなかった。
一方、田中はこのまま社員にならないかと声をかけられるほどの仕事ぶりであった。
しかし3年間全く仕事がなかった訳ではなく、オムニバスドラマ番組『悪いこと』では脚本(太田)
出演(太田、田中)、オムニバス映画『バカヤロー!4』(森田芳光プロデュース)の中の一本
では監督(太田)を務めた。また、営業として数多くの予餞会でネタ披露をした。
自称「日本一予餞会に出た芸人」。

1993年に自らの芸能事務所「タイタン」を設立。社長には太田光代が就き、この年からテレビ復帰。
1994年には、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』で初の十週勝ち抜いたレギュラーとなり、
『タモリのSuperボキャブラ天国』内の「ボキャブラ発表会 ザ・ヒットパレード」に出演。
この番組で、ネプチューン、海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)をはじめとする
当時キャブラーと呼ばれた若手芸人たちの出世頭となり、再ブレイクのきっかけをつかむ。
『黄金ボキャブラ天国』では初代名人に。当時のキャッチフレーズは「不発の核弾頭」。

ネタは太田が書いているが、『ボキャブラ』のネタは田中が多く書いていた。もっとも
田中が作っていたのはダジャレの部分だけであり、そのダジャレを際立たせるコント部分は
太田が作っていた。
テレビ番組のレギュラーを多数抱えるが、タイタンの定期ライブや雑誌の連載、本の出版なども
こなしている。漫才のネタは主に太田が作っている。時事ネタや社会風刺を題材としたものが目立ち、
「社会派漫才」などと呼ばれる。太田は時事ネタを扱うのは、ネタが枯渇しないからだと語っている。
芸能人の活動の中心がテレビとなっている中、太田は「ラジオで笑いが取れる芸人になりたい」と、
漫才への思いを表している。漫才のネタ作りは「田中がスクラップした新聞記事を太田が読んで
ボケて行き、田中はそれに対してツッコミをいれつつネタを書き留めていく手法をとる。そのこと
から太田は田中のことを「書記」と指した事がある。またこの作業は太田家のリビングで行われる。


プライベートでは田中は太田を「光」と呼び、太田は田中を「小僧」と呼ぶ。田中が仕事のときに
太田を「太田さん」と呼ぶのは仕事とプライベートの区切りをつけるためであり、太田が田中を
「田中」と呼ぶのは、「小僧」では誰のことかわからないと感じているため。

太田は田中との比較において絶対的な自信を持っており、様々な機会を捉えてはギャグの一つと
して田中への非難・痛罵を繰り返す。テレビなどでは、太田が田中を非難することが多いが、
田中が「キレる子供」と揶揄される位すぐに解散を口にするので、いつも太田が謝って収拾
している。前述に基づくエピソードとして、新人時代に田中がネタをとちってしまい、
ネタ終了後の楽屋で太田が田中を責めたが、田中が「次の舞台でネタを間違ったらコンビ解散!」
と言い放ち、何故か逆ギレされてしまう。しかし太田は「こんな事で解散されちゃ、たまった
もんじゃない」と田中を必死になだめたということがあった。



【受賞歴】

1993年:NHK新人演芸大賞受賞
1994年:日本映画プロフェッショナル大賞・新人奨励賞を太田光が受賞
1997年:国立演芸場花形演芸会 銀賞受賞
1998年:国立演芸場花形演芸会 金賞受賞
1998年:ゴールデン・アロー賞芸能賞受賞
1999年:浅草芸能大賞新人賞受賞
2000年:国立演芸場花形演芸会 審査員特別賞受賞
2000年:笑芸人大賞 銀賞受賞、ちなみに金賞はビートたけし
2001年:国立演芸場花形演芸会 特別大賞受賞
2006年:万年筆が似合う著名人 芸能・ファッション部門を太田光が受賞
2006年:芸術選奨文部科学大臣賞放送部門受賞
2007年:ゆうもあ大賞を太田光が受賞
2008年:日本大学藝術学部 日藝賞受賞
2012年:喜劇人大賞特別賞受賞


【パーソナルデータ:太田 光】

埼玉県ふじみ野市出身、大東文化大学第一高等学校卒業、日本大学藝術学部中退・
(本人によると、退学届を出していないため実際には除籍扱い)。
高校時代は誰とも話さなかったらしく、友達が一人もいなかったが、「陰口を言われるのが嫌」
という理由で学校を休まず皆勤賞を取った。休み時間は、図書室に入り浸り、「図書室の不良」
を自称していた。修学旅行では約10冊の小説を持参し、1人で全部読みきった。大学に進学する
と初対面の学生にもハイテンションに振る舞い、友達を作ろうと必死であった。
1988年3月、日本大学芸術学部(日芸)演劇学科で知り合った田中と爆笑問題を結成。
デビュー間もない1990年、ビートたけしの代打で『ビートたけしのオールナイトニッポン』に
出演した際、ギャグで「たけしは風邪をこじらせて死にました」と発言し、以後しばらくの間、
ニッポン放送を出入り禁止になった。
1990年9月26日、当時同じ事務所(太田プロ)だった元タレントで現在のタイタン社長である
太田光代(当時は松永光代)と結婚。

極度の偏頭痛持ちで、左眼のかすみと嘔吐を伴う偏頭痛を中学生時代から頻繁に経験しており、
頭痛薬を服用している。
恐妻家。妻の光代は豪快な人物で、彼女との奇妙な結婚生活はエピソードに事欠かない。
一方、「将来は夫婦漫才をやりたい。タイタンは元々夫婦漫才をやるために設立した」とも
発言している。光代からは「ピーちゃん」または「アーリン」(「ダーリン」の変形。
と呼ばれている。彼女と同棲当時、些細な喧嘩から腹部を蹴られて吹っ飛んだことがあり、
内臓打撲で負傷した。
父親は太宰治に自作の小説を渡した、母方の祖父は島崎藤村の書生、母は永井一郎と昔つき
あっていた、妻の光代は松永久秀の子孫であるなど、家族についても語っている。
父親は建築士であり、叙々苑の店舗設計を請け負っていた。父親には書道の趣味があり、看板や
商品に使用されているロゴを書いたのも父親である。
計算が大の苦手。2桁の足し算の暗算すらまともにできないという。かつてアルバイトでレジ係を
していたことがあったが、釣り銭を適当に渡していたのがバレてすぐに解雇になった。
子供の頃、エレクトーンを習っていた。
立川談志以外、師匠と呼ぶ人はいない。
一人っ子。

尊敬するビートたけしに影響を受けた、最近起きた著名人の不祥事や事件をネタにするブラック・
ユーモアを得意とする。
テレビ番組やライブでの登場時、岡本太郎の「芸術は、爆発だ!」や『オレたちひょうきん族』
の「タケちゃんマン」にて明石家さんま扮するパーデンネンの「パァー」を彷彿させるような、
両手を広げたおどけたポーズ(歌舞伎の形態模写)をとる。

サザンオールスターズの大ファン。他に好きな歌手はジャニス・ジョプリン、
スティーヴィー・ワンダー、谷村新司等。学生時代はニューミュージック、洋楽を好んで
聴いていた。なお、サザンオールスターズの桑田佳祐とは、メールのやりとりをする仲であり、
桑田は太田のことを、かつて担当した番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』
から、「総理」と呼んでいる。
相方の田中と意見が合うことは少ない。というよりも芸風として意識的に田中と意見を合わせ
ないようにしているらしい。田中が「椎茸嫌い」だったという理由で、自らの「椎茸嫌い」を
克服するなど、徹底している。
ヘビースモーカーでタバコを多い時には1日に40本を吸うことがある。しかし、2008年の人間
ドックでの肺検査(呼吸機能・胸部CT・喀痰細胞診)では異常が見られなかった。
大変な読書家(唯一の趣味が読書)で、多忙にも拘らず年100冊を超えるペースで本を読む。
敬愛する作家にヴォネガット、アーヴィング、サリンジャー、カポーティ、太宰治、宮沢賢治、
向田邦子、司馬遼太郎など。高校時代の愛読書は亀井勝一郎、島崎藤村。
ヴォネガットファンとして有名で、事務所の名前「タイタン」や飼っていたオカメインコの
名前「キルゴア」はヴォネガットの作品に由来するもの。

一番大好きな時間は「テレビ番組の収録等で、みんなでワーワー話をしている時」、二番目に
好きなのは「家で本を読んでたりする時間」だという。



【パーソナルデータ:田中裕二】

東京都中野区 鷺宮出身。東京都立井草高等学校卒業、日本大学藝術学部中退。
早稲田大学第二文学部も受験したが、受験日を1日間違えるという致命的な失敗を犯してしまった。
その失敗の教訓を得てか、一浪を経て、日本大学藝術学部(日芸)演劇学科に合格し
太田と出会う。
日芸在籍時には、マキノ雅弘が主催していた私塾にも通っていた。
また、同時期に大学の先輩とお笑いコンビ「東京ギャグポンプ」を組んでTBSの昼の番組の
レギュラーを持っていたが、売れずに2ヵ月弱で解散。当時の芸名は「白木屋みのる」
(背が小さいことから白木みのると居酒屋の白木屋をもじってつけられた)で、ボケ担当。
コンビ名・芸名を考案したのははらみつお。当時の相方は編集者(2006年時点)をしている。
1988年3月に漫才コンビ「爆笑問題」を結成。コンビではリーダーを担当しているが、
田中が自ら立候補したのではなく、太田が決めたものである。

2000年正月放映の『号外!!爆笑大問題』で、田中が所属事務所が入居しているビルの1階の花屋に
勤務する9歳年下の女性の自宅を訪れ、両親にあいさつしたと太田がバラし、メディアが
一斉に扱った。同年3月24日にその女性と結婚。その後、二世帯住宅を建てた。
2000年9月12日、睾丸肥大のため都内の病院に入院。10月9日に左側の睾丸摘出手術を受けた。
ちなみに摘出した睾丸を病理診断・研究したのは向井千秋の夫である向井万起男
(慶應義塾大学病理専門医)だったとのこと。
2009年10月2日、自らの離婚を発表した。その後、前妻が臨月に入っていることが報じられた。

「そんなわけねぇだろ!」「やめろよ!」「うるせぇよ!」「いい加減にしろ!」「しつけーよ!」
などのストレートなツッコミをする。しかし、太田の無軌道なボケも拾い上げて対応し、
かつテンポが良いため、太田にとって貴重な存在である。また、他の芸人のアドリブによる
ボケにも瞬時・的確にツッコんでいるが、ノリツッコミは恥ずかしくてできないとのこと。
かつては太田のボケのほぼすべてにツッコミを入れていたが、近年は太田があまりにも無軌道な
ボケをすると流すこともある。

近年は俳優としてドラマや映画に出演することも多い。

実兄は「コム・デ・ギャルソン オムオム」のデザイナーを務め、現在は自ら立ち上げたブランド
「KONTRAPUNKT(コントラプンクト)」のデザイナーである田中啓一。実姉は同じくデザイナーで
「アツキオオニシ」や「ピンクハウス」を手がけた田中里美。父は自ら立ち上げた
「人類生き残り研究会」の会長。母方のいとこにならはしみきがいる。おばは東京都杉並区阿佐谷
にある商店街「阿佐谷パールセンター」の名付け親。

チェッカーズ、小泉今日子、田原俊彦、近藤真彦、佐野元春、サザンオールスターズ、
プロ野球ファミリースタジアム(ノーヒットノーランを達成したことがある)、松田聖子、
安倍なつみの大ファンである。
無類の猫好き。自身も猫を飼っており、猫に話しかける時は赤ちゃん言葉になる。
ミミズと椎茸が大嫌い。シソやミョウガ、セロリなどの香りが強い野菜や軟骨の焼き鳥、クラゲの
食感も苦手で、食べ物の好き嫌いはかなり多いらしい。好物はスイーツ。

30歳になるまで女性と付き合ったことがなく、24歳のときに歌舞伎町の高級ソープランドで
初体験をすませた。
大学時代はかなりのナルシストで、自分に想いを寄せている女性を田中自身も気にかけており、
十分カップルになりえたのだが、「僕は皆のアイドルだから1人のものになりたくない」という
理由で付き合わなかった。
大の競馬ファン。2007年、第67回皐月賞予想で7番人気のヴィクトリーに本命印を打ち、予想を
的中させた。実際に馬券も購入しており、馬連94,630円(購入額5,000円)と3連単1,623,250円
(購入額200円)を的中させ、計7,978,000円を手にした。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :藤本敏史 (1970.12.18生まれ・AB型・ツッコミ)
        原西孝幸 (1971.3.5生まれ・A型・ボケ)

 
2人が高校の同級生で一緒にNSCに入学。大阪NSC8期生となる。
学生時代はお互いの事を「おとち」(藤本)「ダニ」(原西)と呼び合っていた。
NSCには一緒に入学したが、藤本は原西とはコンビを組むつもりがなく、他の気になる
人を誘ってコンビを組もうと色々な人に声をかけていただが、その姿を捨てられた犬のような
目で原西は見ており、成り行きで「FUJIWARA」を結成したと言っている。
同期に千原兄弟、バッファロー吾郎などがいる。
コンビ名の由来はそれぞれの名前から一文字ずつとったもので、結成当初は「藤原」だった。
コンビのネタ書きは藤本が担当。一方で原西が個人で行うギャグは自分で考えており、
ネタに盛り込まれることもある。コントでは歌やリズムの要素を取り入れたものが多い。

1991年9月、ナインティナイン雨上がり決死隊などが所属していた若手ユニット
「吉本印天然素材」に結成とともに参加。
MBSヤングタウンで競演していた事からつんく♂と交流があり、1994年にはつんく♂が初めて
プロデュースした曲「明日が来る前に」でCDデビューも果たしている。
天素メンバーとして最初の東京進出を果たすものの、天然素材の活動停止後は仕事は低迷。
2人とも解散、及び芸能界引退も考えていた矢先にABCのプロデューサーから、「出ないか?」と
言われて出演したすんげー!Best10に出演したことがきっかけで関西でブレイクのきっかけを掴む。
当時は司会が同期の千原兄弟で、また、後輩からは白い目で見られてたという。その後テレビ大阪
からオファーが来て、冠番組の開始を承諾し、1997年関西ローカルのバラエティ番組「吉本超合金」
(テレビ大阪)にレギュラー出演し関西を中心に本格的にブレイク。
出戻り後は心斎橋筋2丁目劇場のレギュラー出演者に復帰することはなかったが、1999年9月
baseよしもとが開場。陣内智則シャンプーハットとともに若手のまとめ役に成長した。
2002年から再度東京を中心に活動。関西テレビのローカル番組「すぽーつアミーゴ!」の企画で、
ホノルルマラソンを一定時間内に走りきれなかった罰として2002年12月30日-2003年3月7日までの
限定で「NISHIMOTO(にしもと)」というコンビ名で活動した(他局にも同コンビ名で出演)。

ゲスト出演や準レギュラーはそれなりにあり、雛壇芸人としても重宝されているが、地上波での
レギュラー番組が1つもなく、その点においては2人とも気にしていたが、2009年4月より全国区での
初冠番組「FUJIWARAのありがたいと思えッ!」が放送開始された。「もう、レギュラー0本と
いじられないから寂しい」と話していたが、2010年9月に番組が終了し再び
「レギュラーゼロの生活に戻る」と発言している。
現在、舞台はルミネtheよしもとを中心に活動中。

北野武がFUJIWARAの主演映画を企画していたが、女にもてない男のイメージで脚本を書いていた為、
藤本の結婚を聞いた北野は「イメージが違う」と企画を中止してしまった。



【受賞歴】

「爆笑!ゴングショー」 チャンピオン
「笑いの金メダル」第14回優勝
「新春お笑い大賞2009」



【パーソナルデータ:藤本敏史】


大阪府寝屋川市出身。大阪府立東寝屋川高等学校卒業。
愛称「フジモン」
高校の同級生である原西とともにNSCに入学したが、当時は原西とコンビを組むつもりはなく、
人気が出そうな男前と組みたかった。

東京進出以降はスベリキャラもしくはガヤキャラとされている。テンションが高く、場の空気を
盛り上げるムードメーカー的存在である。ミーハーな性格で、流行りものに目がない。
人見知り芸人からは楽屋に藤本がいると萎えると言われている。
ライセンス藤原、オードリー若林等)

不細工顔にコンプレックスを持っている。そのため美への憧れが人一倍強く、髪型は常に今風に
セットしていたが、結婚後に木下から「若作りが痛い」と言われ、木下によってバリカンで坊主
にした。本人曰く「評判がいい」らしく気に入っている。


お酒はほとんど飲めない。1杯飲んだだけですぐに酔ってしまうほどの下戸である。

ディズニーキャラクターが好きで、東京ディズニーランドへ過去に300回近くも行き、グッズも
多数所有している。ディズニー好きの芸能人と一緒に行くこともある。千原ジュニアからは
「フジモンと行ったら絶対楽しい」と言われている。東京ディズニーランドのシンデレラ城前で、
妻の木下優樹菜へ結婚のプロポーズをし、東京ディズニーリゾート内のホテルで挙式も挙げた。

「モーニング娘。」の元メンバー、石川梨華の大ファンである。「恋愛レボリューション21」など
の楽曲でのダンス振り付けを完璧に覚えており、実際に踊ることもできる。

2010年8月にタレント木下優樹奈と入籍。挙式は、同年12月5日に東京ディズニーリゾート内に
あるホテルで、芸能関係者は一切招待せずに家族や親族ら身内のみで行われた[。披露宴は、
2011年2月20日に芸能関係者を招待し、ウェスティンホテル東京で行われた。同期の千原兄弟
司会を担当した。披露宴最後の手紙は相方の原西が涙ながらに読むと会場にいた芸人仲間と藤本が
涙を流した。


2007年の新語・流行語大賞にノミネートされていたIKKOが多用する「どんだけ〜」は本来、藤本が
『リンカーン』の企画で新宿二丁目の同性愛者の間でのスラングを取り上げたのが契機であるが、
その後IKKOにより多用され、いつの間にかIKKOの持ちネタにされた。

2009年は天津木村の「エロ詩吟」を流用し、「フジ詩吟」というものを作っている。

ハサミを形態模写した「フジモンバサミ」と言うネタがある。これは、『ザ・イロモネア』で
ハサミのモノマネをしたのがきっかけで生まれ、同番組ではそれ以外にセロハンテープや三角定規
などの文房具モノマネを行っている。

妻である木下がよく挨拶で使う「チョリース」も持ちギャグのようにしている。

原西の結婚式に相方として呼ばれるはずだったが、原西の妻が藤本の事を生理的に嫌っており
「呼ばないで」と言われ呼ばれなかった。しかし、2011年2月20日に行われた自身の披露宴
パーティーには相方を招待した。




【パーソナルデータ:原西孝幸】


大阪府寝屋川市出身。大阪府立東寝屋川高等学校卒業。
高校時代はラグビー部に所属していた。
高校の同級生であった一般女性と結婚し、2人の子供がいる。結婚前は女性と接するのが極度に
苦手だったため、芸人仲間からは「チェリーボーイ」と呼ばれていた。このことがネタになり
『吉本超合金』では全裸の女性をモデルに絵を描くという企画が行われるも終始困惑した表情で
挙動不審な様子だった。

猫好きで2匹の猫を飼っている。番組で「猫イズワイフ(妻)」と言われ、イビられた事があるが
原西には実際に妻がおり、飼っている猫は原西の家族の一員である。

雨上がり決死隊の宮迫博之らによると、「根が真面目」。プライベートでも全力でギャグをする
といった他の芸人とは違った一面もある。一方で、仕事が終わるとさっさと帰宅してしまう。


『3年B組金八先生』(TBS系)の熱狂的なファン。出歩く際にドラマの音声のみをiPodに入れて
聴いているほど。また、自動車の運転中にも流し、リズムをとりながら聴いているという。
就寝前にはiPodに入れた坂本金八の説教を聴くのが習慣であり、聞かないと眠れないほど。
また、説教の内容の一部分を聞いただけで、誰に説教しているかを判別できる。しかし、
坂本金八は好きだが、演じている武田鉄矢はそうでもないと『ダウンタウンDX』で話した。
理由は、金八が絶対にしない下ネタを武田は普通に話すからである。

娘に付き合って女児向けアニメ『夢色パティシエール』や『プリキュア』を見ており、
バラエティー番組内でプリキュアの変身の振りと決め台詞を、真面目に全力で披露している。
本人はウケ狙いのつもりはないが、顔芸のような表情とオリジナルよりもオーバーアクション
の為、笑いが起きる。最近は、娘の為にとマネージャーに「プリキュアの仕事を入れてくれへんか」
とお願いしている。




所属事務所:吉本興業
メンバー  :川谷修士 (1974.5.17生まれ・A型・ツッコミ)
        小堀裕之 (1974.1.9生まれ・B型・ボケ)


コンビ名の由来は2人がファンであるTHE BLUE HEARTSの『44口径』の歌詞からつけたもの。
後に『44口径』は舞台出演時の出囃子となる。出会いはNSCで共に12期生。
同期にCOWCOW、土肥ポン太など。
1993年6月コンビ結成。漫才のほか、音楽活動でも知られる。CDを何枚かリリースしている。
なおデビュー曲「逢いたくて」は、週間ランキング72位を記録している。

大阪時代には絶大な人気を誇り、baseよしもとの看板芸人であったが周囲の反対を押し切って
2000年に東京進出。baseよしもとの卒業では東京進出第1号。
現在ルミネtheよしもとの舞台に出演中。また、100分間ノンストップの漫才を行う単独ライブ
「百式」などでも知られる。



【受賞歴】

1997年 第18回ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞
1997年 第27回NHK上方漫才コンテスト優秀賞
1997年 平成9年度NHK新人演芸大賞(演芸部門)大賞
1998年 第33回上方漫才大賞 新人奨励賞(1998年)
1994年 第7回爆笑BOOING(関西テレビ)第7代グランドチャンピオン
2003年 『M-1グランプリ2003』決勝4位
2009年 第2回上方落語台本大賞 優秀賞※演題「ハンカチ」、


【パーソナルデータ:小堀裕之】

奈良県奈良市出身、大阪経済法科大学中退。
ニックネームはヘドロ。トロリの小堀。既婚者で3児の父。
「パカパ〜」という掴みのギャグがある。
子煩悩。一時期、携帯の待ち受け画面が子供の写メだった。
歯茎が出ているので、後輩からはグキ兄と呼ばれることも。ブサ兄とも呼ばれる。
吉本ブサイクランキング上位の常連である。
先輩・後輩問わずいじられるいじられキャラ。
甲本ヒロト、THE HIGH-LOWS、THE BLUE HEARTSの大ファンである。
ロック魂に満ち溢れている。
「2丁拳銃の拳(Gu)」の企画で瓦割を1枚だけ割ろうとするも失敗。再度挑戦し、今度は5枚割るが
手を骨折した。
幼少の頃は両親が離婚するなど複雑な家庭環境で育っており、テレビ番組やライブで当時の逸話を
話すこともあるが、内容が重すぎてあまり笑いが取れないと言う。
2009年頃からは、マッシュルームヘアにしており、「どうもビートルズです」という掴みギャクを
多用していた。この副次的効果として、2010年4月に斉藤和義がリリースした『ずっと好きだった』
のPV(アップル社のビルの屋上で行われたビートルズのゲリラライブをパロディ化したもの)に、
リリー・フランキー、濱田岳と共に出演している。2011年11月に斉藤がリリースした
『やさしくなりたい』のPV(日本武道館でのライブをパロディ化したもの)にも再び出演している。



【パーソナルデータ:川谷修士】

兵庫県神戸市出身。兵庫県立東灘高等学校(17期生)卒業。
夫人は放送作家で元「高僧・野々村」の野々村友紀子。愛妻家。2児の父。
野々村はもともと2丁拳銃の先輩であるため、小堀曰く「会うと変な感じ」と述べている。
嫁は自分の旦那のこと(川谷)は褒めちぎり、小堀のことをボロクソに言う。
「吉本男前ランキング」上位の常連。しかし本人は女性には奥手で、嫁以外の女性経験がない。
歌がとても上手いことで有名。
甲本ヒロト、THE HIGH-LOWS、THE BLUE HEARTSの大ファン。
過去に引ったくりを捕まえて警察に表彰されたことがあり、このことを漫才のネタにもしていた。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :江崎隆文 (1980.12.16生まれ・A型・ツッコミ)
        中村英将 (1981.3.12生まれ・A型・ボケ)


共にNSC9期生で、NSCで出会いコンビ結成。コンビ名は木村祐一がつけた。
あいういお漫才をする事が多いが、江崎がよくネタを飛ばす。
同期にしずるハリセンボンライスエリートヤンキー囲碁将棋など。


【パーソナルデータ:江崎隆文】

徳島県出身、近畿大学卒業。
大学時代にイタリアンレストランでバイトしていた為、料理が得意。
話に入るタイミングがおかしかったり、トークのネタチョイスがおかしいと言われる。
芸人仲間からの愛称は「グリコ」と呼ばれることが多い。
ロシアンモンキー川口、ブロードキャスト房野、イシナシハザマ硲と仲が良い。
トータルテンボスの野球チーム、アフロモンキーズに所属。

相方の中村からはビジュアルがいいのにもったいないと言われている。
(髪型、服装をもっと良くすれば男前ランキングに入るはず)



【パーソナルデータ:中村英将】

埼玉県さいたま市出身、駒沢大学卒業。
趣味は映画観賞、読書。
少年少女の坂口から好意を寄せられている。
ゆったり感を組む前は現エリートヤンキーの橘とコンビを組んでいた。

所属事務所:ワタナベエンターテイメント
メンバー  :名倉 潤 (1968.11.4生まれ・AB型・ツッコミ)
        原田泰造 (1970.3.24生まれ・B型・ボケ)
        堀内 健  (1969.11.28生まれ・B型・大ボケ)



当初、原田は出身地が同じ友人とコンビ「パープルン」を結成し、活動していた。しかし、相方が
多額の借金を作り、地元に帰ってしまい解散。そして、原田が新しい相方を探していたところ、
オーディション時に一緒で、当時ピンで活動していた堀内に目が止まり、原田から声をかけて
1991年に「フローレンス」を結成。コンビ名は、たまたま見かけたラブホテルの名に由来する。

原田と堀内は共にボケでツッコミがいなかったため、コントがグダグダになってしまうことが
多かった。そのため、「ジュンカッツ」を解散したばかりの名倉を原田・堀内の2人が頼む形で
引き入れ、1993年にネプチューンを結成。ちなみに、結成当初のトリオ名は「フローレンスZ」で、
数ある候補の中に「ゲリマンダー」もあった。トリオ名の由来は、漫画『キン肉マン』の登場人物
ネプチューンマン。
結成当初は大田プロに所属していたが、後にワタナベエンターテイメントに移籍。

コンビ別れを繰り返して結成したグループのため、3人には芸歴に差があり、その上ネプチューンと
しての活動期間はさらに短い。そのため、先輩後輩が個人によって違うので、ややこしいとメンバー
は発言している。大阪の芸人や初めて共演する芸人で芸歴の長い人がゲストで来た場合、
相手の芸歴を考えてそれぞれの話し方を決めなくてはならないため、不便との事。

名倉は雨上がり決死隊とほぼ同期、原田と堀内は一期下で、千原兄弟FUJIWARAなどと同期となる。

プライベートでの付き合いが殆ど無い芸人グループが多い中、3人はプライベートでもとても
仲が良く、楽屋は常に一緒である。楽屋では、原田と堀内がよくふざけあい、それを名倉が
一歩引いて見守る、というのが常であるという。堀内曰く、番組の収録後に名倉から説教される。
芸人仲間からもその仲の良さが「青春ドラマのよう」と例えられ、絶賛されている。

3人はそれぞれ「潤ちゃん」「泰造」「健」と呼びあっている。ネプチューン結成初期の頃は、
名倉が一番先輩ということもあり、原田と堀内は「名倉さん」と「さん」付けで読んでいたが、
ある時名倉が「同じグループなのに「さん」付けで呼ぶのはおかしい」と2人に言ってから、
その後「潤ちゃん」と呼ぶようになった。

2000年代、特に名倉が渡辺満里奈と結婚した辺りから、名倉は司会・コメンテーターや雑誌の
執筆活動に、原田はCM出演を含めた俳優業に、堀内は個性派俳優業に加え、トーク番組・
バラエティー番組に単独で出演するなど、それぞれの特性を活かし、ピンでも活躍している。

メメンバー全員が下戸である。

ウッチャンナンチャンさまぁ~ず、よゐこ、出川哲朗、キャイ~ン、TIMらと共に、
ウンナンファミリーと呼ばれている。

ネタ作りは、主に堀内が担当。ただし、堀内が書く台本には、堀内独自の擬音や歌のテイストが
使用されているものが多い独特のもので、実際に堀内自身が演じて説明しないと、メンバーに
伝わらないものがほとんどで、それをひとつのちゃんとしたコントに直すのは、名倉の役割である。

コントでは、原田・堀内のボケ(2人で童謡やオリジナルのミュージカル風の歌を唄う事もある)
に対し名倉が突っ込むも、更にボケ続けるという「ボケ倒し」「ツッコミすかし」のスタイル。
名倉のツッコミは関西弁で声を張り上げるものの、頭を叩く・体を蹴るなどの強烈なものではなく、
むしろ常識人から見た的確な指摘というスタイルである。時に名倉は、2人に巻き込まれる形で
ダチョウ倶楽部のようにギャグを繰り出したり、イジられ役に回る事もある。素の状態や
フリートークの場面でも度々同様のやり取りを展開し、原田・堀内の天然性、
名倉の常識人的バランスと面倒見の良い、ある意味お人好しな面などが垣間見られる。

『タモリのボキャブラ天国』出演時代、ネプチューンは原田と堀内の強烈な個性で一際存在感を
放っており、番組内での人気も視聴率を大きく左右するほど絶大なものであった。その中において
名倉の存在がやや薄く、共演者から「名倉はいらない」などと番組内でネタにされる事もあったが、
名倉の的確なツッコミは2人のボケを纏めるためになくてはならない人物である。



【パーソナルデータ:名倉 潤】

兵庫県姫路市出身、市川高等学校卒業。
1986年デビュー。元々は俳優志望だったが、4年後の1990年にお笑いに転向。1991年にジュンカッツ
というコンビを組み、ツッコミを担当。駆け出しの頃はバラエティ番組に出演するほか、
『東京フレンドパーク』で前説を務める等していた。その後相方が引退しピン芸人となったところを
ボケしかいない後輩のコンビ芸人フローレンス(原田泰造、堀内健)に「ツッコミをやってほしい」
と持ちかけられ、1993年にネプチューンとして再始動した。2人は後輩で年齢も下だが、
すぐにタメ口で話しかけてくるようになったという。ネプチューン結成当初の頃までは
太田プロダクションに所属しており、同じく同事務所に当時所属していた爆笑問題の太田とは
デビュー当時からの仲で太田のことを「ひーちゃん」と呼んでいた。

東南アジア系の顔つきが特徴で、「実は日本人ではなくタイ人(ハーフですらない)」とネタに
される。タイ人ネームとして「ナパ・キャットワンチャイ」と称される。また色黒で、贅肉無しの
均整のとれた筋肉質な体格である。『爆笑問題のバク天!』の企画で、カンボジア人とタイ人は無
料で入れるカンボジアにある世界遺産、アンコールワットに入れるかどうか実験したことがある。
守衛が外国人なのかを見た目で判断するのだが、見事に入場できた。


かなりの読書家で、2006年現在週刊プレイボーイに書評コラム「名倉潤の勝手に読みツッコミ!!」
を連載している。

2005年4月5日に、『銭形金太郎』で共演していたタレントの渡辺満里奈との結婚を発表した。
同年10月に行われた関係者だけで行われた結婚披露宴では、堀内・原田が祝辞でこれまでの
ネプチューンの苦労話をし、それを聞いていた名倉が号泣したという。

2007年12月9日20時43分、第一子となる男児が誕生。
2010年6月24日には第二子となる女児が誕生。

2010年11月19日、中目黒にプロデュース店「ステーキなぐら」を開店した。

物真似も得意で、マイケル・ジャクソンなど多彩なレパートリーがある。

後輩の面倒見が非常に良く心配屋で、後輩芸人からたびたび相談を受けては真剣に応じるという。



【パーソナルデータ:原田泰造】

広島市広島市出身、東京都立農業高等学校卒業。
父親の故郷である広島県広島市生まれ。3歳まで同市で育ち、父親の転勤により、その後
小学校1年生まで北海道札幌市で、更に小学5年生まで東京都狛江市で、小学6年生以降は
東京都立川市で育ち、その後、現在実家がある東京都東村山市に引っ越す。

20歳の頃、雑誌『JUNON』が主催するジュノン・スーパーボーイ・コンテストに応募し、
書類審査は通ったが面接で自己アピールとして長渕剛の『とんぼ』を歌ったところ、落選した。
芸人になる前はエキストラの会社におり、1991年のNHK大河ドラマ『太平記』に死体役として
出演したことがある。

高校時代の友達を誘い、渡辺プロダクション(現:ワタナベエンターテインメント)に入社。

1995年、現在の妻と結婚後、同じ都内の東村山市に家を建て、そこに在住。ブレイクする前だった
ため結婚の事実を公表する機会がなく、そのまま1998年に妻子持ちであることが発覚。
当時女性からの人気があったこともあり、会見を開く。ブレイクする前に結婚したため誰も
知らなかったとのこと。現在、2人の子供を持つ。

2000年に『編集王』(フジテレビ系列)でテレビドラマで初主演を務め、その後も多くの作品に出演。
2004年公開の『ジャンプ』では映画初主演も果たした。

2005年7月、舞台「キスへのプレリュード」に主役で出演、これにより同年度の第43回ゴールデン・
アロー賞・新人賞を受賞。なお、その7年前にはネプチューンとして同・芸能賞を受賞した。

2006年4月から、NHK教育テレビで放送開始の『一期一会 キミにききたい!』のナレーションを務める
など、芸の幅は更なる広がりを見せている。

持ちギャグは自己紹介時の「曲がったーことが大嫌いー♪はーらーだたいぞうです!」
「大好物はージャスミンティー(以下同)」「銀座原宿六本木~(以下同)」、
「リセットさえすりゃサイコーだー♪」など。

フジテレビ『タモリの超ボキャブラ天国』でのホストクラブを舞台にしたコントで演じた
「アキラ」役で一躍ブレイク。「アキラです、フー!」というおなじみのセリフの登場シーンでは、
ファンの歓声が他の芸人よりも特に大きく聞かれた。あまりの浸透ぶりに視聴者の中にはアキラが
本名だと思っている人もいたくらいである。他にも「代打教師秋葉」などのキャラクターを演じた。


全員酒が飲めないネプチューンの中でも、特にアルコールに弱く、本人曰く「飲むと必ず吐く」
ぐらい弱いという。そのため「モルツ」のCMに出演したときはアルコールを抜いて撮影していた
ことを映画「ジャンプ」での舞台挨拶で明かした。ただししゃべくり007などの番組中で飲酒し
酩酊する姿がしばしば見られ、酒が嫌いというわけではないらしい。同番組の収録明けに行われた
堀内健の結婚報告会見にも、酩酊して出ていた。

顔立ちは、若干2代目木久蔵(林家木久扇の子息)や舘ひろし、イ・ビョンホンに似ている。
また、2008年『篤姫』に出演した際、大久保利通の写真を横に並べられ、よく似ていると
言うことで話題になった。

自宅のある町内会の野球クラブに所属し、1番打者で一塁手をつとめる。
右投げ両打ちで背番号は7。ただし球技は下手。

裸になるのが得意な一方で、ファッションに関してはメンバーの中で一番疎い。
『笑う犬』の罰ゲームで「100万円を使って自分なりにカッコいい格好をしてこい」と言われた
時に、ジーンズメイトで自分のサイズと同じ服を軽トラック1台分も買ってきた。

現在住んでいる東京都東村山市の出身の志村けんをこよなく慕っている。

幕末歴史好きで、司馬遼太郎の「坂の上の雲」、「竜馬がゆく」などが好き。

両親は昔、所沢市松葉町(新所沢駅東口付近)で「たきたて」という名前で弁当屋を
経営していたが、すでに潰れて無くなっている。農業高校出身なのもこの弁当屋が関係して
おり、「中3の時に進路をどうするか決める時に、その時は芸人になりたいとは全然思って
いなかったから、両親や(当時店を手伝っていた)姉ちゃんを少しでも楽にさせるために
本気で弁当屋を継ごうと思ってて、そのためには何も知らないよりかは知っていた方が
いいと思って農業高校を選んだ」と語っている。

芸人を目指す前は俳優志望だったが、当時所属していた事務所の1番の出世株が、
『あぶない刑事』で館ひろしに詰め寄られて「ワタシ、ナニモシラナイアルヨ」の一言しか台詞がない端役という弱小事務所だったため、即座に辞めた。

また、少林寺拳法の経験があり、実際に型を披露したこともある。




【パーソナルデータ:堀内 健】

神奈川県横須賀市出身、神奈川県立逗葉高等学校卒業。
大学受験に失敗しアルバイト生活となる。高校時代は小泉今日子の大ファンで、ザ・ベストテンの
生中継の現場に原付で駆けつけたという。その当時の様子を事細かに覚えており、小泉本人に
当時の事を話して小泉を驚かせた。また、「笑う犬の冒険」「力の限りゴーゴゴー!!」では
堀内発案の企画で小泉と夢の共演を果たし喜びを露にしていた。その後はとバスの
ツアーコンダクターに憧れて、東京観光専門学校トラベル科に入学。しかし2年生のとき、
ツアーコンダクターには女性しかなれないことを知り、再び挫折。卒業後は、再びアルバイト
生活となり、数々のアルバイトをこなす。

21歳の時、渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)のオーディションを
受けて見事合格。1991年に原田泰造とコンビ「フローレンス」を結成しデビュー。1993年に
元ジュンカッツの名倉潤が加入して、「ネプチューン」を結成。初めは後から名倉が加入する事に
難色を示していたが、直ぐに打ち解け、今やすっかり仲の良いトリオになっている。

2004年2月19日に東京共済病院で右高位精巣摘出手術を受け右の睾丸を摘出した。
2006年10月にいきなりヘアーカットし、坊主頭になる。カットしたのは堀内の父母。

2006年12月に後藤ひろひと演出の舞台「みんな昔はリーだった」で舞台初主演デビュー。

2009年5月22日、2008年正月の飲み会で友人の紹介で知り合った17歳年下の一般女性と入籍。
結婚報告会見は『しゃべくり007』収録後のスタジオで行われ、名倉と原田も出席した。
2010年2月15日15時35分、第一子である長女が誕生した。名前は公表していない。


芸人仲間からは、実生活においてもテレビに出ている時と同様に自由奔放な性格そのままで
あることが語られている。10年来の友人である土田晃之は「テレビに出演している時と全く
一緒で欝陶しい」と語り、東野幸治も「永遠の少年」「ピーターパン」という異名を付けている。

同じグループである名倉・原田の近況はもちろん、番組での共演者・ゲストの事を事前に細かく
リサーチして番組内でのネタに繋げるなど、笑いに関しては非常にまめで勤勉である。
また、ダウンタウンの松本人志やよゐこの有野晋哉、有吉弘行と同様に、共演の芸能人や一
般人に対して珍奇な(しかし的確な)あだ名をつけるセンスに優れる。

明石家さんまは、司会がこなせれば「ポストさんま」もあり得ると評した。松本人志は自身の
ラジオ番組において、「意外に的確にお笑いの分析が出来ている」「酔拳のよう」などと
高く評価している。

所属事務所:ホリプロ
メンバー  :大竹一樹 (1967.12.8生まれ・O型・ボケ)
        三村マサカズ (三村勝和・1967.6.8生まれ・A型・ツッコミ)


出会いは高校2年生の時、東海大学高輪台高等学校工業科で同じクラスになる。。

1988年5月、既に事務所からスカウトされていた高校時代の同級生に連れられ、ホリプロの事務所に
遊びに行ったことがきっかけでお笑いの道へ進む事になった。当初は元同級生・大竹・三村の
トリオ(トリオ名は「しゃぶしゃぶ」)として活動を開始した。しかし、元同級生がいつの間にか
他の芸人とコンビを組んで舞台に出ていたため、三村が「お前は1人で舞台に立ってた方がいい」
と発言しトリオを解散する。そしてこの後、東海大学在学中であった大竹が大学で知り合った友人を
三村に紹介し、再びトリオを結成。その友人は三村とは一切面識はなく、三村はその人物について「
そいつが気にくわない奴で、ダメな大阪の人みたいな、大阪の人ってセンスがある人はすごいけど、
大阪の最低と東京の最高が同じぐらいっていう最低な感覚を持っている奴だったから、蹴っ飛ばし
てやった。」と発言しており、三村の意向でそのトリオも解散した。なお、2度のトリオ結成に
ついて三村は「俺と大竹はちょっとやる気がなくて、一人引っ張ってってくれるリーダー的な
人を立てないと一生売れないだろうなと思っていた」と発言している。

1989年4月、ホリプロのお笑いライブに出演し、お笑いコンビ「バカルディ」として活動を開始。
「バカルディ」はネタを考えていた時に着ていたバカルディのTシャツの文字から取った。また、
ダブルミーニングとして日本語の「バカ」も込められている。

1990年代前半、テレビ朝日『ザ・テレビ演芸』の審査員をしていた山藤章二の支持を受け
関東期待の若手芸人としてテレビ・ラジオ等で活躍。同時期に人気を博したホンジャマカと共に、
当時の人気力士に準えて「お笑い界の若・貴」とも称され、各局にレギュラー番組を持った。
しかし90年代半ば頃からメディア露出の機会が減り、しばらく不遇の時期を過ごした。当時、
後に90年代のお笑いブームの一角となる『ボキャブラ天国』の出演打診を受けるも大竹は断った。
後に番組はヒットし、ボキャブラブームが到来する。その後番組から途中出演の打診を受けるも
「一度決めた事を今更変えられない」という想いを固持し続け、『ボキャブラ天国』への出演
はなかった。その後は主な活動の場を舞台へと移し、コンスタントにライブ活動を続けていた。
ボキャブラに出なかった理由は「コンビ名を安売りしたくなかった」という。そんな大竹は自分を
追い込んで家でネタを書き続けていた。ボキャブラで売れてゆく芸人を横目に見ながら。
三村は小さな地方の仕事をし続けるたび、いつかは絶対売れるんだと信じ
「俺には大竹がいますから」とか言い続けていた。


2000年に出演した『新ウンナンの気分は上々。』の企画において、コンビ名を「さまぁ〜ず」に
強制的に改名させられた。これをきっかけに再び世間の注目を集め出し、三村独特の
「〜かよ!」に代表されるツッコミ芸(通称「三村ツッコミ」)が認知され再びブレイク。
これを足掛かりに徐々にその活動の場を広げていった。

しかし、お笑い芸人の看板とも言うべきコンビ名を安易に変えてしまった内村はその責任を重く
感じ、その後両コンビ(特にさまぁ〜ず)を自身のレギュラー番組などで積極的に起用していった。
これが不遇の時期を過ごしていた両コンビに世間の目に触れる機会を与え、後のブレイクと
現在の活躍を後押しする形となった。

2000年以後は人気が定着、お笑いブームの中にあって、ゴールデンタイムから深夜番組まで、
八面六臂の活躍が出来る中堅芸人としてテレビ番組を中心に活躍。舞台、書籍などでも活動している

多くのレギュラー番組を持っているが、ライブに重きを置いており、今でも2年に1回は
単独ライブを開催している。チケットは即日完売するほど人気も評価も高い。

1996年頃、『ナインティナインのオールナイトニッポン』の番組内で三村のツッコミが何度も
ネタにされた。岡村隆史は当時から三村を「関東一のツッコミ」と呼び、各所で三村のものまねを
披露していたようだが、当時の三村の知名度からテレビでそのシーンが放送されることはまれだった。
当人たちも様々な場所で「(再ブレイクは)ナインティナインのおかげ」と語っている。


コンビ仲が非常に良い。下記エピソードがある。
・ほとんど楽屋が2人とも一緒
・新幹線・飛行機などの移動の際に隣同士で座るなど。
・喧嘩も少ない、理由としては「他の芸人と戦わねばならないのに、コンビで喧嘩をしている場合 
 ではないから」と語っている。。
・共演者などから「想い出が一緒」と言われることがある。高校の同級生から始まったコンビであり、
 バイトも一緒にしていたことから二人共通の想い出が多い。童貞を捨てた瞬間も一緒だった。
・低迷していた頃、三村は大竹に「バカルディの核は大竹だ。ヨゴレ仕事は全部オレが引き受ける
 から、お前は思う存分ネタを書け」と言い続けていた。



【受賞歴】

2003年 ゴールデン・アロー賞芸能賞



【パーソナルデータ:大竹一樹】

東京都墨田区出身、東海大学文学部北欧文学科(現・北欧学科)中退。
家族構成は両親と4歳下の妹という4人家族。父親は「失踪中でどこに居るかわからない」が、
コントライブなどの際にふらっと顔を出す。
実家が狭く、高校生になっても自分の部屋がなく妹と同部屋だった。


コントの場ではその後ろ向きな発想を生かし、ネタの大筋作りを担当する。低迷期にはその才能を
生かすよう事務所の意向で放送作家の仕事をしていた。
大竹がコントネタとして編み出した「悲しいダジャレ」「悲しい俳句」といった
「悲しいシリーズ」は、書籍化されベストセラーとなったほか、2005年にはさまぁ〜ずの
コントライブ中に登場するバンド「マイナスターズ」のボーカル(兼作詞)としてCDデビューも
果たしている。

デビュー当時、所属事務所から「キャラクターが薄い」「相方の三村と顔が似ている」との指摘を
受け、「眼鏡屋」のコントがきっかけで伊達メガネを掛けることになり、それ以来メガネが
トレードマークとなっている。

性格は基本的にネガティブで心配性。人生の目標は「死ぬまで無事」。比較的ずぼらな性格の
三村に対して、度々「お母さんみたいな」注意をする。
三村と比べテンションが低く見られがちだが、本人は「基本的にやる気はあるのに、一時的に
テンションが高いだけの三村が目立ってやる気がないように見えている」と語っている。
非常に猜疑心が強く、ドッキリに遭遇してもほとんど騙されない。
三村曰く「負けず嫌い」ならぬ「負けず好き」で、何かを成し遂げる為に頑張るよりも、
サッサと諦めるアッケラカンとした性格であると述べられている。一例として、富士登山を
行ったときに九合目まで登ったものの、面倒くさくなって引き返した。
高所恐怖症である。
健康面については特に心配性であり、常に薬を持ち歩き、何かあるとしょっちゅう病院に行く。
プライベートが謎に包まれており、相方の三村や仲の良い先輩の内村でさえも
「私生活がわからない」という。三村は自分の家族の話やプライベートであった話などを、
大竹に対してよく話すが、大竹は一切自分のことについては話さない。
接客業の人間の無神経な態度には批判的であり、臆することなくクレームをつける。
その一方で、自身はルーズな面があり、学生時代から極度の遅刻性である。
趣味は映画のDVDを買うことだが、買うだけで観ることはあまりない。また海外セレブのゴシップを
扱った英字雑誌もよく買うが、英語はほとんど読めない。
大学在学中はノルウェー文学やスウェーデン語などを受講していたが、授業に一度も出たことが
ないため完全無知だと語った。大学進学は付属高校からエスカレーター式に進学した結果であり、
受験勉強はおろか幼少期より塾などに一切通ったことがない。
小学校の頃にバイオリンや剣道を習っており、剣道は初段の腕前である。その他の特技は
サーフィン、自動販売機の硬貨速入れ、社交ダンス2級、けん玉検定5級。
相撲に詳しく、自称相撲博士。
まかないのアルバイト経験があるため料理が得意。相方三村も認めている。
 
2011年3月8日、フジテレビアナウンサー中村仁美と入籍。



【パーソナルデータ:三村マサカズ】

本名:三村勝和
東京都墨田区出身、東海大学付属高輪台高等学校出身。

1997年、本名から「三村マサカズ」に改名。理由は「ただなんとなく」。
この頃、ナインティナインの岡村に「関東一のツッコミ」と評され、注目を集めるようになる。

2004年3月、『内村プロデュース』収録中に、無茶なボケが原因で左膝前十字靭帯を断裂、
全治3ヶ月の怪我を負う。6月にはドッジボールの試合で右膝前十字靭帯を断裂。

小・中学校時代はスポーツ万能で明るく、クラスの人気者で、当時から周囲を笑わせることに
全身全霊を傾けていた。
小学校の卒業文集に書いた将来の夢はプロ野球選手で、それを対外的な志望にしていたが、
内心では漫画家になることを更に強く志向していた。中学校2年までは成績優秀で、常にクラスで
1、2番の成績であったが、3年生になり周囲が高校受験勉強に本腰を入れ始めると成績が急降下し、
全校約300名中200位前後に低迷した。


冷静な芸風の大竹に比較され、温和な心優しいイメージをもたれるが、クールな面がありドラマや
映画で泣いたことはない。斜に構え「偽善だよ」と毒づく様は大竹に「お前は鬼だ」と呼ばれる。
ただし、自分や自分の家族が関わった場面では号泣する。
かなりの読書家で、寝る前は必ず読書をしているらしく、大竹によると「本屋で平積みされている
ような本はほぼ読んでいる」という。しかし、大竹から「本を多く読んでいるのに馬鹿」などと
もいわれている。


1996年8月8日 入籍。現在、1男1女の父親である。
夫人とはアルバイト先で知り合った。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :宮迫博之 (1970.3.31生まれ・B型・ボケ)
        蛍原 徹 (1968.1.8生まれ・A型・ツッコミ)

2人の出会いはNSC大阪で、7期生である。
コンビ名の由来は、2人とも好きだったRCサクセションの曲『雨あがりの夜空に』から。正確には、
NSC同期生で行なったライブのタイトル「雨上がり決死隊」をそのままコンビ名にしたものである。
NHKの番組出演時には、「死」という文字を使用するのは放送上好ましくないというNHK側の意向に
より、「雨上がり決志隊」と暫定的にコンビ名を変えることで対処した。知人にお祝いの品を贈る
際にもこの名前を使用している。
NSC時代に、高校時代の同級生など元々友人関係から来たお笑いコンビを多く見てきた。そのため
宮迫と蛍原はコンビを結成した当時、自分達も二人での思い出(=ネタ)を作らなければいけない
と1年間芸人としての活動は少なくして一緒に過ごそうと決め、アルバイトも同じバーで始めた。
ちなみに、宮迫はそのバーでのアルバイトがろくに続かず辞めてしまい、蛍原だけが数年勤めた。

NSC時代の同期生に、ナインティナインの矢部浩之の実兄・矢部美幸がいる。
1990年代前半は、若い女性達を中心に人気を博した吉本興業のお笑いユニット・吉本印天然素材の
リーダー格として活躍。天然素材で共に活動していたナインティナインはNSC9期生で、2年後輩
になる。
大人気の天然素材時代、同番組でMCを担当する。当時の雨上がりは天然素材の牽引役であり
ナイナイと人気を二分していた。ナイナイ・FUJIWARA・チュパチャップス・バッファロー吾郎等
に対し、宮迫は「お前ら、面白くないねん!!俺らが1番面白いんや」と暴れるキャラクターで
もあった。天然素材はアイドル芸人として売ろうとする会社の方針と対立したが、かえって
お笑いを愛する芸人の集まりだった天然素材内部の結束力は高まり、現在でも宮迫は
「天素が滑るな」と元メンバーを叱咤することがある。

名古屋では、CBC中部日本放送の夕方のワイド番組『ミックスパイください』にレギュラーで出演。
その姉妹番組である深夜番組『ミックスパイ+』にも出演し、番組の総合司会を任せられていたが、
高視聴率を誇っていたミックスパイ本編とは逆にミックスパイ+は常に視聴率0%台を叩き出して
いた。その事実を知った宮迫は、「こんな誰も見てないテレビに出ても仕方ない!」
「やる気ないわ!」「帰る!」等、番組の生放送中に暴言を吐きまくり、その日の番組は終了。
程なく番組自体も放送終了した。しかし、この番組以降もCBCテレビの番組にことある毎に出演
しており、現在は『ノブナガ』の準レギュラー(以前はレギュラーだったが、現在は
フットボールアワーと2週ごとに交代で出演)である。
1999年に人気番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』に出演し再び注目を浴びる。
その後『めちゃ×2イケてるッ!』に出演したことや、宮迫の「宮迫です」の自己紹介ネタが
定着したことなどから再び人気に火が点き始めた。
2000年に、フジテレビの深夜番組『エブナイ』で木曜のレギュラーとして出演。番組での様々な
キャラクターによるコントが視聴者にウケて、木曜の放送は『ワンナイ THURSDAY
〜ウケねらいな俺達〜』と改題された後に『ワンナイR&R』として独立。その後、プライムタイム
へと進出した。これにより、ガレッジセール、山口智充(途中から、平畠啓史との
DonDokoDonとしての出演)らと共に大ブレイクを果たした。
2003年に、初の全国ネットの冠番組『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』を持つ。


【受賞歴】


1992年 ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞
1992年 上方お笑い大賞銀賞
1993年 上方漫才大賞新人奨励賞


【パーソナルデータ:宮迫博之】

大阪市西淀川区出身。私立金光第一高等学校(現・金光大阪高等学校)卒業。
お笑いタレントだけでなく、俳優活動や山口智充(DonDokoDon)とのユニット「くず」としての
音楽活動歴もある。
高校卒業後、警察官を志望して大阪府警察の採用試験を受けるも、不合格となり、NSCに入る。
同期と「ぴいぷる」というコンビを結成するが解散。1989年、蛍原徹とお笑いコンビ
「雨上がり決死隊」を結成。
テレビ等では、常にテンション高くキレることが多いキャラクターで見られているが、実際の
ところ普段はかなり大人しく、時に「根暗」とまで表現される程であることが、相方の蛍原徹や
先輩の松本人志、島田紳助等多数の口から語られている。
自己紹介では自分の頬を叩き、両人差し指を前に突き出し「宮迫〜です!」と言う。この一連の
動きでは頬を叩くのは2回と勘違いしている人が多いが、実際には1回しか叩いていない。これは元々、
自分の頬を叩く「俺はアホかっ」(もしくは「俺のアホっ」)という自虐ギャグから派生した
ものであり、これに「太極拳の型を加えた(本人談)」ものである。
かなりの恐妻家で、妻には頭が上がらない。家事を行なっており、子どもの弁当も作っている。
そのため雨上がり食楽部などではシェフとのアシスタント役として料理を手伝うことも多い。

かつては薄毛であることを芸人仲間に弄られていたが、2008年頃より増毛を目的に
「K-BO-BOプロジェクト」に参加。その結果薄毛が解消され、「前髪が邪魔になるくらい生えた」
とコメントするに至っている。
高所恐怖症である。最近涙もろい。
後輩芸人の面倒見が良いことで知られている。
お笑い芸人ではあるが、元々俳優の仕事に興味があり、俳優になるための手段として、演技の勉強
のためにお笑いをやっていた。

松本人志は「大阪に帰ったとき、懐かしいから二丁目劇場の2階から見物していて、30秒見て売れる
と思ったのが宮迫だった。」と語っている]その松本に才能を見抜かれた影響からか、宮迫が才能を
見抜いた芸人は多くがブレイクしている。
 

【パーソナルデータ:蛍原 徹】

大阪府門真市出身。大阪府立門真高等学校卒業。
少年時代は中学まで野球少年でプロ野球選手になるのが夢だったが、同世代の桑田真澄の球を
見た時「これはダメだ、プロには行けない」と思い、やめた。
科学者にもなりたかったようで「毒物劇物取扱責任者」という、国家資格を取得している。
大学受験に失敗して、やけを起こしNSCへ入学。同期の森田嘉宏(現・コラアゲンはいごうまん)
と共に「ホワイト&ホワイト」というコンビを結成するも解散。「のっぺり星人」という名前で
ピン芸人として活動する。1989年、NSCの同期生だった宮迫博之と雨上がり決死隊を結成。

1990年代初頭、吉本印天然素材でリーダーを務め、器用な仕切りができる芸人として期待を集めた。
徐々に相方である宮迫博之の陰に隠れるような存在になるものの、その落ち着いたポジションは
ボケでもツッコミでもなく「自由人」だと言われる。嫌味のないおっとりとした、人の良さに
溢れたキャラクターである。

ギャンブル好きで熱心な競馬ファンである。売れない時期に競馬で300万円を当てた事があるが、
当たった事を誰にも言わず自分の墓石を買い、それをよく宮迫などに「蛍の墓」と揶揄されている。
自分の車を売った35万円で馬券をたった1枚買い、130万円を当てたこともある。
『北の国から』の大ファンであり、それが転じて「将来的には北海道に移住したい」、
「自分は北海道富良野出身」と公言するほどの北海道好きとなる。自身の結婚式も『北の国から』
ロケ地に近い北海道・美瑛町で行った。また、北の国から『2002・遺言』時のエキストラに一般人
に紛れて応募した。3日間撮影予定だったが、天候に恵まれず撮影中止となった。

カラオケのレパートリーが「JUST ONE MORE KISS」と「ウンジャラゲ」の2曲しかない。
サラサラヘアーのおかっぱ頭が特徴的。ユニリーバ・ジャパンの行った「Lux・髪の毛の
きれいな男性芸能人」のアンケートでは見事2位に選ばれた。


2004年、長年付き合っていた恋人と結婚。
2012年1月に、結婚8年目にて長女が誕生。

所属事務所:吉本興業
メンバー あべこうじ ピン芸人 (阿部公二 1975.2.19生まれ・O型)


神奈川県出身、神奈川県立商工高等学校(神奈川商工)卒業。
高校の2年先輩に石井正則(アリtoキリギリス)がいる。

1998年に渋谷公園通り劇場の渋谷新人計画で「カンヴァス」というコンビでデビューするが、
2001年に解散。同年にピン芸人として再デビュー。
2000年に結婚。娘が1人いるが2007年3月に離婚。
「あべさく」としての活動もあり、佐久間一行と仲が良い。
芸人になる前にはさまざまが職業経験があり、俳優の仕事をしていたこともあるため、
演技やナレーションの評価も高い。映画『机のなかみ』では主役の家庭教師・馬場元役に抜擢。
3月26日に放送されたあべこうじのポッドキャスト番長にダンカンがゲストに登場し、
ダンカンはあべの師匠および大先輩であるとわかった。
アップダウンの竹森に顔が似ており、よく間違われる。しかも苗字が相方の阿部と同じなので
「ひとりアップダウン」と自称する。

「2009年R-1制覇できなかったら今後、R-1には参戦しない」と公言していたが、また来年も
出たいとよしもとオンラインの番組内で発言していた。そしてついに2010年のR-1グランプリで、
6度目の決勝進出を果たし、念願の優勝を成し遂げた。また優勝と同時にR-1卒業も表明した。
楽しんごに好かれている。

五反田でVoiceというバーを経営している、自ら店に出ることもあるが、だいたいは
後輩芸人が日替わりで店長と務めている。ロシアンモンキー中須など。


【受賞歴】

2004年 R-1ぐらんぷり決勝進出
2005年 R-1ぐらんぷり3位
2006年 R-1ぐらんぷり2位
2008年 R-1ぐらんぷり5位
2009年 R-1ぐらんぷり5位
2010年 R-1ぐらんぷり優勝
所属事務所:吉本興業
メンバー  :千原せいじ (千原靖史 1970.1.25生まれ・O型・ツッコミ)
        千原ジュニア (千原浩史 1974.3.30生まれ・O型・ボケ)

2人は実の兄弟。
ジュニアが高校の時に、先にNSCに入学していた兄・靖史から「お前、何もせんと家におんの
やったら、俺吉本にいてるから来いや」と誘われる。NSCへ出向いた浩史は、靖史に
「明後日までにネタつくってこい」と言われ、「ついこの間まで引きこもってた奴に
なんちゅうことさせんねん」と思いながらも、言いつけどおりにネタをつくり上げた。
そのネタで生徒を前に爆笑をとり、からだじゅうに電気がバーッと走った感覚になり
「俺にはこれしかない、この世界で闘っていくんや」と決意し高校を2ヶ月で中退した。

まだ無名だった大阪時代、コンビ名を「S.K.B.(せいじ こうじ ブラザーズの略)」として
活動していた時期があったと、バッファロー吾郎の木村明浩によって明かされたがあくまでも
案であり、このコンビ名での活動は行なっていない。ちなみに、バッファロー吾郎はこの
コンビ名を聞いた時の感想は「ダサい」の一言だった。
ダウンタウンや雨上がり決死隊が上京した後、シュールなコントが受け、ジャリズムと共に
心斎橋筋2丁目劇場で頭角を表し、お笑いライブで異例となる大阪城ホール公演を開催し
超満員にしたこともある。

「週刊少年ジャンプ」に連載されていた『ろくでなしBLUES』に、兄弟揃って漫画の登場人物と
して登場したことがある。


持ちネタはコント主体だが、2006年正月のお笑い番組をはじめ、数回漫才を披露したことがある。
2人共『ドラえもん』について造詣が深く、雑誌の『ぼく、ドラえもん』で思い入れを
語ったり、『アメトーーク』などドラえもんが特集されたテレビ番組に出演している。
成人すると、両親から今までにかかった養育費1600万円程を請求された。
お互いの携帯番号を知らない。
後輩のナインティナインと番組共演がほとんどない。せいじは「DOORS 2009春」に出演した他、
せいじの家をナインティナインが下宿代わりにしていたと、バッファロー吾郎・竹若元博が
述べており、せいじとはある程度の親交があったようだが、ジュニアは「ほとんど喋ったこと
もない」「岡村なんてテレビでしか見たことがないから、テレビ局の地下駐車場で挨拶されて
緊張した」と発言している。なお、ジュニアはとんねるずの石橋貴明とも共演が一度もない。
その後2011年、「FNS27時間テレビ」の「笑っていいとも!増刊号生SP」で初めてジュニアと
岡村が共演した。両者は近くにいたが、大人数ということもあってか直接本番中に会話する
ことはなかった。
ジュニア曰く「せいじとはずっと一緒に生きてきて合ったことがない」。
ジュニアとせいじの関係は「京都ではお兄ちゃん、大阪では相方、東京では他人」だと
ジュニアは言っている。
最近ではお互いピンで活動することが多く、ジュニア曰く「会うのは月1回程度」。
共に番組出演に加えてジュニアは執筆活動や役者として、せいじは飲食店経営に教育番組、
関西ローカルでのコメンテーターなど共に異なる活動でありながら多方面で活躍している。


【受賞歴】

1994年 第15回ABCお笑い新人グランプリ 優秀新人賞
1994年 第29回上方漫才大賞(ラジオ大阪) 新人賞


【パーソナルデータ:千原ジュニア】

本名:千原浩史
京都府福知山市出身、京都共栄学園高等学校中退。
NSC8期生
小学校時代は周りの友達と悪さをしていたが、浩史だけが目立って見えていたせいか、友達の
親からよく思われていなかった。ある日、友達の家へいつものように遊びの誘いに行くと、
中から親が出てきて「息子はいない」と言われ、帰ることにした。帰り際に家の中から親の
「千原くんと遊んだらあかん」という声が聞こえてきたという。 

浩史の地元の小学生は、黒い制服の公立中学(大半はこちらに行くらしい)と青い制服の
難関私立中学(中高一貫)のどちらかに行くのだが、青い制服の中学生は周りから一目
置かれていたという。浩史は周りを見返すために青い制服の学校に行くことを決心する。
3ヶ月、親に頼みこみ塾へ行かせてもらい、見事難関私立中学を受験して合格。しかし、
浩史にとってみれば、この青い制服の学校に入ることがゴールであったため、急に勉強を
やる気が失せてしまった。

そんななか、周りの人は大学に向けて猛勉強をしている(進学校のため、1つの授業につき
教室の前後に2人の先生が付いていた)。そんな学校の空気になじめず、登校拒否、
引きこもりとなる。高校にはなんとか進学したが、相変わらず引きこもりを続けていた。
ごくたまに仕方なく高校に行っていたが、周りから気持ち悪がられていた(理由は、たまに
学校に来ても一切誰とも話さなかったり、当時から尖っていて周囲の人を殴ったり
していたから)と浩史は言っている。

ある日、高校に行ったとき、「もうこんなところにいても自分は何も得ることができない!」
と思い、帰り道で橋から川に青い制服を投げ捨てた。それを最後に、高校には行っていない。
そのおり、先にNSCに入学していた兄・靖史から「お前、何もせんと家におんのやったら、
俺吉本にいてるから来いや」と誘われる。NSCへ出向いた浩史は、靖史に「明後日までに
ネタつくってこい」と言われ、「ついこの間まで引きこもってた奴になんちゅうことさせんねん」
と思いながらも、言いつけどおりにネタをつくり上げた。そのネタで生徒を前に爆笑をとり、
からだじゅうに電気がバーッと走った感覚になり「俺にはこれしかない、この世界で闘って
いくんや」と決意し、高校を2ヶ月で中退した。 NSC時代について、「授業はつまらなかったが、
同期の原西孝幸が面白くて、彼を見たさに通っていた」と語っている。

15歳という若さでお笑いの世界に入ったため、同い年や年上の後輩を多く持つ。しかし、
年下である身分からか、数名の後輩によっては「さん」付けや敬語で話すこともある。
18歳で、心斎橋筋2丁目劇場を仕切っていた。
「冠番組を持つと死にかける」という不幸な一面を持っており、急性肝炎とオートバイ事故で
2度にわたり生死の境をさまよったが無事生還。奇しくも2度とも誕生日の数日前に起きている。
急性肝炎を患った際には、同時期にベイブルースの河本栄得が劇症肝炎で急逝したこともあり、
ジュニアも同じ病気ではないかと懸念された。なお、これが6年周期でやってきており
(肝炎は20歳、事故は26歳)、2007年がちょうど6年目にあたっていたため、
「今回は何があんねん」と不安に思っていると番組内で告白した。不安は当たり、
この年6月の『着信御礼!ケータイ大喜利』の収録後に、足の指を剥離骨折した。

以前から『ジュニア』と呼ばれていたが、2005年、芸名を「千原ジュニア」に正式に改名。

趣味がないというが、大阪時代は裁判の傍聴をよくしていた。
兄のせいじと正反対で極度の人見知り。
東京に進出した頃は「自分の笑いはわかる奴にだけわかればいい」といったスタンスだった
が、交通事故を機に、ネタを書く際にはより多くのお客さんに伝わるように解りやすい言葉を
選ぶように心掛けるようになったという。
1年で何度も後輩芸人らと一緒に宮古島を訪れる。1人で訪れることもある。
自身が率いる軍団を「Jリーグ」と称している。
メンバーは、Bコースタケト、ピース綾部、サバンナ高橋、陣内智則宮川大輔など。



【パーソナルデータ:千原せいじ】

本名:千原靖史
京都府福知山市出身、福知山商業高等学校卒業。
NSC入学後、当時引きこもりだった弟の千原浩史(千原ジュニア)を誘い、お笑いコンビ・
千原兄弟を結成。大雑把で一癖あるツッコミが特徴的である。吉本芸人では、ほんこんや
岩尾望(フットボールアワー)と並ぶ不細工キャラだが、2002年6月に宮古島の教会で挙式
した既婚者である。
デリカシーのない無遠慮なキャラクターではあるが、その反面社交的で、芸人だけではなく
一般人の友人が非常に多い。一般人の会話の中にも入り、その場で連絡先を交換する事もある。
その為プライベートでの人脈・情報網はとても広く『やりにげコージー』『やりすぎコージー』
では、その情報網を利用した企画が放送された。それらの番組ではしばしば私服で登場し
その私服も知り合いがデザインしたものを着用している。
IT企業の社長や不動産会社経営者などの実業家に至るまで幅広い人脈を持ち、彼らとのコネで
大抵のものは購入できると言われている。ちなみに、せいじが入手出来る可能性のある一番
すごいものは、「知り合いの知り合い」が造っている「核シェルター」だという。
天然でバカキャラと言われているが、かつて知能指数を調べた際には「普通に勉強したら
東京大学に入れるレベル」の数値を出したとのこと。
クレーマー気質で、店や企業に対して些細な事でキレ、すぐに怒りの電話等をする。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :岡本隆史 (1970.7.3生まれ・B型・ボケ)
        矢部浩之 (1971.10.23生まれ・A型・ツッコミ)


2人は大阪府立茨木西高等学校サッカー部の先輩後輩として出会う。岡村(当時高1)は矢部の兄
美幸(当時高2)とサッカー部の先輩後輩で面識があり、自宅へ招かれたところに矢部(当時中3)
がいたのが初対面となる。後に矢部が同じ高校のサッカー部に所属し、練習中に矢部から岡村に「
岡村しゃん、『夕やけニャンニャン』って見てはります? 僕あれ観てるとドキドキしゅるん
でしゅよ」と話しかけたのが初めての会話。

1990年、矢部が大学受験に失敗したことに伴い、当時吉本興業に先にお笑い芸人として同社に
所属していた兄・美幸の薦めから、矢部は当時立命館大学夜間部の学生だった岡村を誘い
NSCに9期生(同期はほっしゃん。、宮川大輔など)として入所。矢部が提出するはずだった
NSCへの願書を忘れており、お笑いになるからにはどんなものなのかという理由で劇場に足を
運び見学しにいった日がたまたまオーディションの2次審査の日で会場で最後まで粘り頼み込み
合格となった。コンビ結成当時は岡村がツッコミ、矢部がボケを担当していた、しかし当時の
NSC講師,本多正識(漫才作家)に「(ボケとツッコミが)逆やろ」と言われたことにより役割を
交替している。その後2人は授業料未納(ちなみに雨上がり決死隊の宮迫の入れ知恵である)に
より吉本の社員に「お前ら消したろか」と言われるなどして除籍処分となったため、正式に
NSCを卒業してはいない。

1991年、吉本の若手コンビ6組で構成されるユニット「吉本印天然素材」に加わり東京進出。
1992年には第13回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞し、頭角を現す。程なくして、
当時人気番組であった『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ系)の芸能人大会にコンビで出演した
頃から人気・知名度が急上昇する。

1994年に「天素」から脱退する。理由としては、岡村曰く「ミーハーな女性ファンの多さに
危機感を持った」とのこと。その後、本格的に活動拠点を東京に置く。東京本格進出1年目の
1994年には放送時間こそばらばらなものの、『ナインティナインのオールナイトニッポン』
『ぐるぐるナインティナイン』『ジャングルTV タモリの法則』といっきに3番組も関東放送番組の
レギュラーになり、1995年に『笑っていいとも!』のレギュラー、1996年に『めちゃ²イケてるッ!』
が放送開始。このうち、「ナイナイのオールナイト」「ぐるナイ」「めちゃイケ」の3番組に
ついては以後15年以上続くロングランの番組となっている。

1999年にはゴロ合わせで「ナイナイの年」と銘打ち、映画出演や多数のライブイベントなどを
精力的にこなした。

2010年、岡村が7月15日から体調不良を理由に休養に入ることを発表。休養期間中のコンビ活動は
休止となり、レギュラー番組には矢部が単独で出演していた。岡村は約5ヶ月後の11月27日放送
(24日収録)の「めちゃ×2イケてるッ!」にて復帰。以降はその他の番組にも順次復帰。

2011年、6月5日放送の「爆笑 大日本アカン警察」2時間スペシャルに出演。ダウンタウン
2人と14年ぶりの共演を果たした。

2011年、7月23日・7月24日に放送された『FNS27時間テレビ めちゃ2;デジッてるッ! 笑顔に
なれなきゃテレビじゃないじゃ~ん!!』で、矢部が語った心境で「5カ月近く休んでた相方が
スタジオで大丈夫か、という心配もあった」と告白。昨年の岡村の病気休養について
「一生戻ってこれない覚悟もしてた。そもそも僕がこの世界に誘ったんで、こうなったのも
僕のせいやって…」と自らを責めたことを明かし、「復帰後は高校のサッカー部時代に戻った感じ。
岡村の表情とか優しさとか…」と語った相方の姿に岡村は号泣。一緒に司会を務めたSMAPの
中居正広に「岡村君、やべっちを迎えに行ったら?」と誘われた後、「テレビで泣いたら
さんまさんに怒られる」と言いつつそのまま矢部を迎えに行き、並走。番組終了間際の
20時50分、2人一緒にゴールした。

初期は舞台を中心にコントや漫才を行っていた。岡村の全身を使ったダイナミックなボケと、
矢部の「~じゃないスか」などの冷静な「敬語ツッコミ」が特徴的。岡村が
「身長はひゃく○○じゅっ○○センチです」とゴマかす「チビネタ」等も多かった。

大阪から東京に活動の場を移してからはテレビのバラエティ番組をメインに活動している。
岡村が常識的なことをあえて知らないフリをしたり勘違いしたまま暴走し、それを矢部が軽く
突っ込みながらも岡村を泳がす「勘違いボケ」などを得意としている。

漫才のネタを考えるのは岡村の担当で、仕切りや司会などは矢部が担当している。仕事の比率で
言えば岡村の方の仕事量の負担が多く、ネタを考える岡村の横で矢部が、新聞や週刊誌を読んで
休んでいることでケンカになることが多かった。矢部は岡村が苦手としている仕切りや司会の
仕事を矢部が練習もせずに見事にこなすこと、岡村のまじめにネタを考え、笑いに真剣に取り組ん
でいる部分、お互いに長所、短所をカバーしてコンビのバランスをとっている。

コンビ名の由来は2人がNSCの第9期生であったことから9を2つ重ねて命名した」と公には
答えているが、実際には「コンビ名の由来に特に面白いエピソードもないし、詳しく答えるの
が面倒なのでそういうことにしている」らしい。コンビ名の由来に関しては、岡村の
ブレイクダンスの得意技の名前という説、お笑いを99歳までやりたいからという説、
2人の母校・大阪府立茨木西高等学校が大阪府立の99番目の高校だからとする説などの諸説が
あったが、2007年10月25日放送のニッポン放送系のナイナイがパーソナリティをつとめる
ラジオ番組『ナインティナインのオールナイトニッポン』内で、ブレイクダンスの技である
1990(ナインティーンナインティ)が本当の由来であることを岡村、矢部両人が認めた。
詳しい由来については、ブレイクダンスの1990という技が「ナインティナイン」という
名前であると勘違いし、「ナインティナイン」とコンビ名をつけたとのこと。 また
同放送内で、コンビ名の由来に様々な諸説があることを知り、それを面白がった岡村は、
9は数字上(0から9)では一番大きな値であることから、9を2つ並べることでコンビ2人とも
ビッグになるという意味もあるなどと、それらしいとも半ば強引ともとれるような後付けで、
自らコンビ名の由来の新たな説を披露していた。ブレイクダンスの技から名前をとった
理由としては、「響きがよかったから」「その技がかっこよかったから」などと明かしている。
この命名の時期は、オールナイトニッポンの1998年3月12日放送で矢部の高校の卒業文集に
既に「コンビ名はナインティナイン」と書いてあった事を話しており、吉本の養成所に
入る前から既に決めてあった事を話している。またNSCでの初めてのネタ見せの時には同期生で
コンビとして組んでいる者が他に数名しかおらず、既にコンビ名をつけていたため、
同期生から変な目で見られ反感を買っている。


ナインティナインが今後どのような活動をしてゆくのか、壁にぶち当たったときなどに二人だけ
で会議がおこなわれている。テレビやラジオ番組で会議がおこなわれる場合もあるが、それ以外
に他人に知られたくない議題は主にメールでおこなうことになっている。年齢と共に仕事への
向き合い方での修正や活躍のしかた、コンビでの活動などが話し合われる。
35歳のときにめちゃイケにて、「5年間は何があっても絶対に解散しない」という契約を二人の
中で交わした。最新は、岡村が休養した2010年にあたる5年後、めちゃイケで2010年の年末の
岡村の自宅の引越し時に岡村が矢部の自宅に泊まり契約延長を申し立て、矢部が受け入れ再び
45歳までは何があってもコンビで続けていくことが更新された。
吉本の先輩コンビであるダウンタウンに対してひどく恐縮している節がある。これについては、
ナインティナインがゲスト出演した「爆笑 大日本アカン警察」内で、若手時代に特番で初共演
した際、ダウンタウンを前に緊張のあまり大失敗をしたトラウマが残っているから、と語った。
また、以前松本人志が自身の著書『松本』で「ナインティナインはダウンタウンのチンカス」
と書いたことが原因であると、相方の浜田雅功[や島田紳助が指摘している。



【受賞歴】

1991年 : 第12回今宮こどもえびす新人漫才コンクールこども大賞受賞
1992年 : 第13回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞受賞
1993年 : 第22回上方お笑い大賞銀賞受賞



【パーソナルデータ:岡村隆史】

大阪府大阪市東淀川区出身、一浪の末、立命館大学、関西外国語大学、大阪芸術大学に合格。
本人は大阪芸術大学に進みたかったが、父の勧めで立命館大学経営学部二部へ進学。しかし、
相方の矢部に誘われて吉本興業のタレント養成所・NSCに入所し、大学は1年次で中退した。

大学生だった当時は国家公務員を目指していた岡村だったが、それは「安定した職についてほしい」
という父・治雄の勧めによるものであった。矢部の誘いをきっかけに「俺は親父の敷いたレール
の上を歩いていただけやった」(岡村談)と思い直し、お笑いへの方向転換を決意したという。
この時岡村の父は「隆史をヤクザの世界に誘いおって、矢部を絶対に許さへん!」と大激怒し、
その後矢部が岡村の家に遊びに行っても口を全く聞いてくれなかった。お笑い芸人として成功
した現在も岡村の父は矢部を完全には許してはおらず、険悪な関係のままのようであるが
、岡村は「今では親父も少しは認めてきている」とラジオの中で発言している。

NSC入学時の願書の自己PR欄には「必ずトップに立ち、ダウンタウンのようになって見せます」
と書いていた。

小さい体から繰り出されるハイテンションなキャラクターが特徴。岡村は「(小さい体に
産まれたことに)感謝ですよね。他人と同じ踊りを踊っても、体が小さいから滑稽に見える」と
自己分析している。
また、『めちゃ²イケてるッ!』で多々見せるお笑いや企画に真面目に取り組む様も特徴的で、
演出家・片岡飛鳥は「お笑い番組なのに真面目に取り組むところがもはや芸風」と評している。

憧れている人物は高倉健・ビートたけし・志村けん・とんねるず・ダウンタウン。

一時期は松本人志に憧れしゃべりを目指していたが、「しゃべっておもろい芸人はたくさんいる。
自分は動きで笑わしたい」と思い修正する。

1999年度に受賞した日本アカデミー賞で「将来は高倉健さんのような立派な俳優になりたいです」
と語った。同年に受賞し、同席していた高倉健は立ち上がって拍手をし「頑張って下さい」と
エールを送った。

即興でダンスの振り付けを覚えたり、普通は一年掛かると言われる競馬(キャンター)が3日
足らずで出来たりするなど、芸能界屈指の運動神経の持ち主である。小学生時代に体操教室
(オリンピックメダリストとなった男子体操の西川大輔も在籍していた)に通っていたり、
中学生時代にブレイクダンスに明け暮れていたりしたのが基礎となっている。

テレビを見ることが好きで、芸能界に入る目的のひとつがテレビに出たかったからというもの
である。自分の中にある笑いの壷が独特であり、気になった番組や笑いのネタを何度も
繰り返してビデオで見る癖があり、飽きるまでひたすら見続け、口癖で気になるフレーズで
新しくおぼえた言葉を飽きるまでいい続ける癖もある[要出典]。このため他の芸人のネタを
使ってしまうことが多く「パクリ芸人」という異名を持つ。ただし岡村が番組で使い続けた
ことによりブレイクした芸人も多数おり、誰も知らないネタを発掘するという現象も起きている。

中学生時代はマイケル・ジャクソンに憧れてブレイクダンスを始め、大阪の
「Angel Dust Breakers」に所属し、梅田阪急ナビオ前で毎夜練習に明け暮れて関西2位になる。
当時は茶色くした長髪で「キッド」の愛称で呼ばれていた。『めちゃ×2イケてるッ!』の
企画やキリンビバレッジ・NUDAのCM、応援ゲストとして出演した第57回NHK紅白歌合戦等で、
切れ味の鋭いダンスを披露している。

趣味は漫画、プラモデル、釣り、ゴルフ、テレビゲーム、沖縄旅行、スキューバダイビング。

人見知りな性格で、番組収録中はハイテンションだが、カメラが回っていない時はおとなしい。
社交的ではなかったが30代になってから、交友関係を広げ、色々な人と出かけるようになった。
芸人では博多華丸・大吉の大吉と仲が良い。

明石家さんまと飲みにいくが、笑いに関しての駄目だしをされることが多い。帽子を被って
変装して行った際にそれを注意され、プライベートで変装目的で帽子を被ることを禁止された。

めちゃイケでの横峯さくらとの対決企画をキッカケに東野幸治・出川哲朗・蛍原徹・田村亮・
原西孝幸・堤下敦・梶原雄太・大山英雄などとゴルフにもよく行くとのこと。
このメンバーで「東野ゴルフクラブ」というクラブを結成している。


ファッションなど毎年、年末になると新年に新しく着る洋服を買っている。本人によれば普段は
面倒くさいためジャージ姿が多い。オシャレには憧れがあり、車を運転する時にはサングラスを
かけている。岡村にとってのファッションリーダーは濱口優で、彼が購入したファッションに
毎回興味を示し、同じものを頼んで買ってきてもらっている。この他、スタイリストに頼んで
よくお洒落な服を購入している。

以前は相方の矢部と共に“アナログ芸人”と自称するほどパソコンやネットなどに関する事柄
には疎かったが、2008年2月、それまで持っていたデスクトップタイプのウィンドウズ機に加えて
ノートパソコンのMacBookを購入、これを機にネットの基本操作をマスターし、“デジタル芸人”
と自称するようになった。ただしこれはあくまでお洒落である自分を演出するためのことで、
自分がやりたいことを達成して以降、パソコンとは距離を置いている。自分でパソコンを
マスターしたいという気持ちはあるが、教えてもらう人と自分のレベルの差で下に見られている
ことを嫌い、思うようにいかないことに苛立つことも度々ある。ブログやTwitterなどに
対して否定的な発言が目立ち、特に炎上について神経質になっている。なお2010年春の
主演映画『てぃだかんかん』公開時には期間限定のブログをラフブロとGREE内に開設したが、
更新期間が終了すると閉鎖し、過去ログもアクセス不能になった。

納豆、おくら、山芋(とろろ)、卵かけご飯、牛乳、奈良漬けが嫌い。以前まではコンビ揃って
酒豪であり、超ヘビースモーカーでもあった。めちゃイケでは、アメリカンスピリットキャメル
を吸っている所を度々目撃されていた。しかし、2010年11月27日の放送で、病気療養による
入院をキッカケに禁煙に成功したことを表明し、同年12月31日付で卒煙した。
2011年以降は非喫煙者である。また同様に禁酒している。

長期休養について2010年に体調不良により約5ヶ月の長期休養をした。病名は正式には発表
されていないが、複数のメディアが、関東郊外の精神科系の療養施設に入居していたと報じた。
岡村本人は「(頭が)パッカーンってなった」と表現している。

出演した映画『てぃだかんかん』の過密プロモーション、一人舞台『二人前』の準備などで
多忙が続いた2010年6月ごろから体調が悪化。憔悴しきりながら仕事を休もうとしない岡村を
見かねた矢部が、フジテレビでスタッフも見守る中「休みましょう」と休養を勧めた。
岡村は当初「休養だけはしない」と仕事の継続を懇願していたが、大谷マネージャーの勧めも
あり検査入院し、その後休養することとなった。これにより一人舞台を始め、予定されていた
スケジュールはすべてキャンセルされた。

入院中は明石家さんまやビートたけし、高倉健等が見舞いを希望したが、関係者により厳しく
拒絶された。矢部も見舞いを許されたのは一度だけである。高倉は退院後に祝いの手紙を送った。



【パーソナルデータ:矢部浩之】

大阪府吹田市出身、大阪府立茨木西高等学校卒業。
高校のサッカー部時代からある岡村との関係性も含まれコンビで活動する時は敬語はやめようと
いう約束からタメ語で会話する形式をとっていた。だが岡村の気分しだいで時に先輩、後輩の
関係を持ち出すこともあり、このような会話をしている場合でもボケる岡村に対して敬語で
突っ込みをいれる。
大勢の芸人が出演するバラエティ番組などの司会や仕切りを担当することもある。

映画やテレビドラマ数本出演はあるが共通語での芝居が苦手で、キャラクターはほぼ関西弁で
設定を要請している。『花嫁は厄年ッ!』の安土一郎役は福島県出身で1年間だけ大阪へ
単身赴任していたというキャラクター設定だった。
実兄は元・お笑いコンビ「ちゃんねるず」のメンバーで「LAUGHFACE INC.」代表取締役社長の
矢部美幸(よしゆき)で、元NSCの7期生(同期は雨上がり決死隊など)。
家族は父・幸男、母・富美枝(とみえ)、3人兄弟の次男。弟・龍弘との年齢差は14歳。

NSC入学願書の自己PR欄には「のろくてどんくさいけど体はじょうぶである。タフである。
気が長くてやさしい。アレルギー体質で皮膚がちょっと弱い」と書いていた。
髪の色を茶色に染めているが、これは若白髪で白髪染めを使用しているためである。
八重歯があったが、ドラマ『天気予報の恋人』の撮影に入るにあたり差し歯にして見た目を
整えた。
「めちゃ×2イケてるッ!」のメンバーの数少ない現役喫煙者の中で唯一のヘビースモーカー
(1日平均40本以上)である。吸っているタバコはマルボロの赤。またコンビ揃って酒豪で
あったが、相方の岡村が禁酒したことにより2011年以降は矢部本人以外「めちゃ×2イケてるッ!」
の酒豪メンバーは不在である。
大のサザンオールスターズファンで、好きな曲は「旅姿六人衆」。
生粋のSで短気である。
好きな食べ物は納豆。嫌いな食べ物はきのこ。
相方の岡村と共にアナログ芸人を自称しており、パソコンやネットといった話題には疎い。
愛車はメルセデス・ベンツ ステーションワゴン E63AMGの白。過去にはボルボ850Vエステートや
ポルシェ911カレラⅡ、BMW525iなどにも乗っていた。
腕時計はロレックスのサブマリーナー]。
後輩の芸人たちに対して面倒見のいい親分肌であり、羽振り良く食事に連れて行くことが多い。
後輩たちからは「兄様(にいさま)」と呼ばれ慕われている。矢部が主催する芸人の飲み会
(合コン)は「矢部会」と呼ばれる。
2006年7月から9月まで放送されたドラマ『花嫁は厄年ッ!』では仲の悪い親子役だったが、
母・安土幸恵役を演じていた岩下志麻とメル友になり、2007年のバレンタインデーに
チョコメールをもらった。

吉本印天然素材元メンバー星田英利の芸名を「ほっしゃん。」と命名した(ほっしゃん。の
「ほっしゃん」の部分は矢部、「。」の部分はつんく♂が命名)。

以前は高校の先輩である岡村に対し敬語で喋っていたが、先輩芸人からのアドバイスを受け、
タメ口にした(「岡村さん」という呼び方は名残)。しかし、高校時代の思い出話になると
途端に敬語に戻ってしまうことをタモリに突っ込まれていた。

「第2の石原裕次郎オーディション」の書類審査を突破したことがある。
吉本印天然素材時代は目立たない存在で、ボケもツッコミも上手くできず、いじられキャラ
だったという。その後ナインティナインがブレイクするに従い、若手随一の「仕切り」の名手
となり現在に至る。放送作家の高須光聖と、同じ吉本印天然素材のメンバーであり同期の
宮川大輔が共演したラジオ番組「松本人志の放送室」で、それぞれ「ほんまに巧くなった」
(高須)、「あの人(の努力)はすごい」(宮川)と評価していた。
カラオケ好きだが音域が狭いうえに音痴である
所属事務所:吉本興業
メンバー  :若月徹 (1980.1.27生まれ・A型(Rh)・ツッコミ)
        今泉亮 (1981.1.29生まれ・A型・ボケ)


実の兄弟でコンビ結成。名字が違うのは両親が離婚しており、徹が母親姓、亮が父親姓の為。
東京NSC8期生、同期にスリムクラブパンサー尾形、こりゃめでてーな等。
(地獄の8期と言われる)
徹が亮をお笑いの世界に誘った。亮はミュージシャン志望で今でも曲を作っており
時々、舞台で披露している。
とても仲が良く、亮が結婚するまでは同居しており、バイト先も同じだった。
お互いを「徹くん」「亮ちゃん」と呼び合っている。
他の兄弟コンビからも若月は異常、特殊と言われている。

実家が貧乏で家がとても狭く、真っすぐに寝れなかった為に家族全員の背骨が曲がっている。

父親は二人が中学時代の正月に「人生ゲームを買ってくる」とトイザらスに行ったまま失踪した。
亮の結婚式に出席すると言っていたが、前日になり今まで放ったらかしにしておいた反省をするため、
ベトナムで行水すると言ってドタキャンした。

兄弟共に元暴走族(族名:真利亜)で、亮は運動が苦手で恥ずかしかった為、暴走族になった。
亮は暴走族の9代目総長になったが、8代目(徹)で40人いたメンバーは6人にまで減り、
しかも、そのメンバーはほぼ親戚だった。



【パーソナルデータ:若月徹】

愛知県豊川市出身、最終学歴、愛知県立豊橋工業高等学校卒業。
元暴走族で、お笑い芸人になってからも2009年までリーゼントヘアをしていた。
A型(Rh-)という珍しい血液型のため、暴走族時代にも流血を恐れて喧嘩ができなかった。

非常に弟思いで、「亮ちゃんの好きなところは?」と聞かれ「好きなところはありすぎる」と
言っているが、いちばんは優しいところとの事。
ネタで亮が間違えても、ネタを作った自分が悪いと言って亮を責めない。
亮と一緒に住んでいた時は亮の為に料理をし、2日続けて同じ料理を出すのは悪いと思い、
肉じゃがを作った次の日はアレンジしてカレーに作り直していた。

亮が結婚してからはアルバイト先のカラオケBOXで寝泊まりしている。
月に数回は自分にご褒美としてビジネスホテルに泊まる。

甘いものが大好き。


【パーソナルデータ:若月 亮】

愛知県豊川市出身、最終学歴、愛知県桜丘高等学校卒業。
2010年1月24日に初めてつきあった女性と7年間の交際を経て結婚(挙式)した。
亮曰く、「奥さんは全然笑わない」との事。

相当なアホで、ラフコントロールの森木と共に東の若手芸人のアホ1.2位と言われている。
おバカエピソードは星の数ほどある。

兄弟そろってライセンス井本にかわいがられている。

父親が失踪した事に関して、徹は許せないと言っているが、亮は特に怒っていないらしい。
トイザラスの行ったまま帰ってこないのも「混んでるんでしょうね」と言っている。
所属事務所:吉本興業
メンバー :長澤喜稔 (1980.1.25生まれ・B型・ボケ)
       つよし (山本剛 1979.5.31生まれ・O型・ツッコミ)

共にNSC6期生で、もともと別のコンビで活動していたが解散。元から仲良かったこともあり
2004年にコンビ結成。同期にアームストロングロシアンモンキーグランジ佐藤、五明。
ネタは長澤が作成。コンビ仲がよく、プライベートであった事をすべて話す為に
トークライブ等で改めて話す事が何もないという。
ネタは主に漫才。


【パーソナルデータ:長澤喜稔】

岩手県花巻市出身。
父親が転勤族だった為、小さい事は転校が多かった。
今は頭が禿げているが、昔はロン毛でオシャレで見た目がよく、逆ナンされる事もあったという。
東京に出てきてから一度も彼女が途絶えた事がない。
グランジの佐藤大と、「月灯」というバーで週に1回店長をしている。
グランジ佐藤大、LLR福田、ロシアンモンキー中須と仲が良い。

2012年3月20日 一般女性と入籍


【パーソナルデータ:つよし】

大阪府大阪市出身。
すし小僧というピンネタがある。
ゲームが大好きで、友達からの誘いを断って家でゲームをしてる事が多い。
ラグビーをやっていた為、体が小さい割には足腰が非常に強い。
トータルテンボスの野球チーム「アフロモンキーズ」に所属している。
大阪の港近くにある実家が沈む恐怖に怯えている。
ネタは長澤が考えており、打ち合わせなどにいてもやることがない為
常に携帯をいじってるか、ゲームをしているかで長澤に怒られている。
若い頃は彼女がしょっちゅう変わっていて周りの芸人に惹かれていた。

パチスロが好き。
仲の良い芸人は、アームストロング栗山、LLR伊藤など。
所属事務所:吉本興業
メンバー :箕輪はるか (1980.1.1生まれ・A型・ボケ)
       近藤春菜  (1983.2.23生まれ・A型・ツッコミ)


共に東京NSC9期生で、NSCで知り合う。箕輪は別の女性とコンビを組んでいたが、解散。
2003年にハリセンボン結成。
同期にしずるライスエリートヤンキー囲碁将棋ジューシーズ等。


【受賞歴】
2007年 M-1グランプリ4位
2009年 M-1グランプリ9位

【パーソナルデータ:近藤春菜】

東京都葛飾区出身、最終学歴、桐朋学園芸術短期大学卒業。
交友関係が広く、芸人だけでなくミュージシャンとも交友があり、Pefumeのあ~ちゃんと
非常に仲が良い。
安室奈美恵の大ファンでファンクラブにも入っており、自分達の単独ライブにも招待した。
英語検定3級、漢字検定(日本漢字能力検定)3級の資格を持っている。

担当美容師が、春菜の他に石田純一、彦麿呂の髪の毛も切っている。

小学校3年生の時、男子にカゲでブタと呼ばれていた。その時の担任がその事実に気付き
学級会を開き黒板に大きく「近藤さんはブタじゃありません」と書かれた。
近藤がブタと呼ばれていることを知らない生徒もあり、その学級会によってクラスメイト
全員に知れ渡ることとなってしまった。

【パーソナルデータ:箕輪はるか】

東京都北区出身、最終学歴、早稲田大学卒業。
人見知りで気にしすぎるところがある。小食で菓子パン1つを1日かけて食べる。
学生時代にバドミントンをしており、東京都でベスト16入りを果たす。
母子家庭で育ち、小さい頃に母の帰りをけん玉をして待っていた為んいけん玉が非常に得意で
日本けん玉協会のけん玉道一級を持っている。
髪の毛はいつも自分で切っているが、2012年は約15年ぶりに美容院で切った。

脚本家、放送作家のせきしろ氏と付き合っている。アプローチはせきしろ氏の方からとの事。
3年以上も付き合っているのに、おもしろエピソードが一つもないと春菜に言われている。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :押見泰憲 (1977.5.5生まれ・O型・ツッコミ)
        池谷賢二 (1978.7.5生まれ・B型・ボケ)


日本体育大学在学中に知り合いコンビ結成。
NSCには通っていないが、同期扱いにサカイストなど。
ネタはコント。
カリカ・家城が設立した「東京シュール5」の一員。他のメンバーはカリカ、しずるライス
POISON GIRL BAND

ネタで噛んだりすると押見が池谷を怒ることが多いが、池谷が押見がどれだけ噛んでるか
カウントしてみたところ、池谷よりも多く噛んでいた。いつも押見に怒られてばかりだが
一年に一度は押見に対してキレるようにしている。

以前、「BENKEI」というお芝居で、初日の本番30分前ぐらいに「これ笑いどころがねぇな、
じゃあやっぱ今から考えてください」と演出家(脚本家)に突然言われた時に
押見が「芸人なめんなよ!あなたが(笑いどころを)入れないって言うからこちらは言われた
通りににやってきたんだ。ただどうしてもと言うのなら我々もプロですから 何とか考えます」
と、その場にいた芸人を代表して怒った。それを見て思わず「押見さんすげぇな」と池谷は
思ったという。




【パーソナルデータ:押見 泰憲】

新潟県出身、日本体育大学中退。
結成当初からしばらくはボケ担当だったが、2005年前後から徐々に担当を入れ替え始め、
ツッコミ担当に至る。
押見がネタを作る。
足が小さいとよく言われる。
LLR伊藤、グランジ遠山とアイドルユニットDOIを組んでいる。

ライスの関町と仲が良い。

大の猫好き。


【パーソナルデータ:池谷 賢二】

静岡県小山町出身、日本体育大学卒業。
結成当初からしばらくはツッコミ担当だったが、2005年前後から徐々に担当を入れ替え始め
ボケ担当に至る。
運動神経が非常に良い。
料理が得意で、千原せいじが経営する居酒屋「せじけん」で料理長を務めている。
調理師免許を取得しようとしたが「免許を取ったら芸人を辞めるかもしれない」と押見が止めた。
誰とでもすぐ仲良くなり、交友関係が広い。
後輩からやさしい先輩と言われる。
高校時代は非常にモテたらしく、学校の入り待ちをされたり卒業式はボタンだけではなく学ラン
まで無くなりジャージで帰った。
相方の押見からは小池徹平みたいな顔と言われている。

2009年3月に結婚、2011年に長女が誕生。長女の名前は占い志のゲッターズ飯田に相談して命名。
池谷の嫁は、押見が池谷に厳しい為に押見の事を嫌っている。
所属事務所:吉本興業
メンバー :こうすけ (松野浩介 1983.5.3生まれ・B型・ボケ)
       初恋タロー (1983.1.1生まれ・B型・ツッコミ)


2006年2月4日結成。以前は福岡吉本に所属。現在が東京を拠点に活動中。



【パーソナルデータ:こうすけ】

熊本県出身。
本名:松野 浩介 

最近ハゲかけてきていることを気にしている。
以前結成していた「アメリカンパンクロック」というコンビで、今宮子供えびすマンザイ新人
コンクールで受賞したこともある。


【パーソナルデータ:初恋タロー】

福岡県出身。
本名:高森 敬太

顔がデカイことを先輩によくイジられる。
初恋タロー以前はピン芸人として、長崎の番組のリポーターなどを行っていた。
「一生お金に困らない手相で、頼る人が家族ふくめて3人いる」と言われたことがある。
トータルテンボスによる野球チーム(アフロモンキーズ)に参加している。
以前は体重が90kg近くあったが、吉川メソッドによるダイエット企画で20kg以上の減量に成功し、
現在はごく標準的な体型になっている。
実家が超がつくほどのお金持ちで、建設業、飲食店等を経営)父親のゴルフ仲間は麻生太郎。
2012年の正月はのタカアンドトシのタカ、オードリー春日、オリエンタルラジオの中田と旅行に行って
ゴルフをした。その旅費はすべて高森の父親が出した。
タカアンドトシのタカに非常にかわいがられており、タカ軍団の一員である。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :入江慎也 (1977.4.8生まれ・O型・ツッコミ)
        矢部太郎 (1977.6.30生まれ・AB型・ボケ)


2人は高校の同級生。
コンビ名は、ファミコンソフト『カラテカ』に由来する。入江、矢部ともに身長158cmと小柄。
ファミコンやマンガなど、サブカルチャーを題材としたコントを得意とする。最近は矢部が
芸能人の誕生日を、入江が出身地を言い当てる芸もしている。お笑いブーム以前からテレビ露出は
そこそこあったが、お笑いブームによる恩恵を受けてないという微妙なポジションの芸人である。
また最近はそれぞれピンでの仕事が多い。ライセンス、バッドボーイズと同期。




【パーソナルデータ:入江慎也】

東京都小平市出身。東京都立保谷高等学校卒業。
実兄はBEAMS Tのディレクターで、実弟はラッパー。
趣味はサッカー・キャンプ・プリクラ集め・マンガ集め・買物・フリーマーケット・ナンパ。
2010年の3月より、『ノブナガ』にて「日本お土産駅伝」という企画に挑戦し、2011年10月1日の
放送(CBC)にてゴールした。

芸能界に限らず、様々な分野の社長やスポーツ関係者等人脈が途方もなく広く、代表的な例として
澤穂希・横綱白鵬らと友人であることが挙げられている。
『笑っていいとも!』の水曜日のレギュラーコーナー「イリスポ」で、数多の芸能人のパーティー
などに招かれた際のエピソードを披露している。また、その関係でFacebookの友達リクエストの
数が多く、毎朝驚異的な数の友達リクエストに驚いている事をネタにされている。そのため現在は
「友達5000人」芸人と呼ばれている。
2012年3月、加藤茶の結婚披露宴では、新婦の父と友人であることから芸人としては唯一人新婦側
に座っていた。

かなりの女好きで、現在までで2万人近くの女性に声をかけ 「吉本一のナンパ名人」と呼ばれる。
コンパ王である彼はお店全体を盛り上げるほどの手腕の持ち主で芸人以外にも各界からコンパの
幹事・盛り上げ役を依頼されることもある。
サッカー日本代表の澤選手から「ボランチがわからない」と相談されたことがある。

涙もろく、テレビの収録でうまくいかなかったりするだけで号泣してしまう。

今田耕司率いる今田軍団の一員。



【パーソナルデータ:矢部太郎】

東京都東村山市出身。東京学芸大学教育学部国際教育学部欧米研究除籍。
(除籍された理由は学費が払えなかった為)
父は絵本作家のやべみつのり。
2007年3月に気象予報士の資格を取得した。
11か月でスワヒリ語、モンゴル語、韓国語、コイサンマン語の4か国語をマスター。
つかこうへい作演出の作品など舞台への出演も多い。

『決定!これが日本のベスト100全国一斉○○テスト』では伊集院光らを抑え雑学王に輝いた。
相方の入江がナンパの達人であるのに対し、矢部は異性と接するのが大の苦手。
趣味は歯ブラシ収集。日本のみならず、世界各国の歯ブラシを集めている。
緊張すると股間を触る癖がある。

他人が作ったいわゆる手料理が苦手で 相方の入江の家に行った時も、手料理をごちそうに
なったが食べた後にすべて吐いてしまった。隣の晩ごはんでヨネスケが人の家の料理を食べてる
のを見ただけでも吐いたことがある。千原ジュニアの彼女が作ってくれた天ぷらも衣をすべて
はぎとって食べた。

二世帯住宅の2階を借りて住んでおり、1階に住むお婆さんに非常に気に入られていて、
一緒に旅行に行くこともある。お婆さんは自分が死んだら持っている土地を矢部に譲りたいと
思っているほど。
所属事務所:吉本興業
メンバー :田村 淳 (1973.2.4生まれ・O型・ボケ)
       田村 亮 (1972.1.8生まれ・A型・ツッコミ)


東京のインディーズお笑い集団(集団田中)に2人とも所属していたことから出会い、
1993年にコンビ結成。渋谷で路上ライブを行い、多数の観客を集めるようになる。
1994年4月、銀座7丁目劇場のオーディションに合格して吉本興業に入る。同期にDonDokoDon・
ペナルティなどがいる。大阪NSCでは12期が同期にあたる。初期の頃はロックバンド『KATZE』と
同じ事務所に所属していた。

タモリのSuperボキャブラ天国には「ボキャブラ発表会 ザ・ヒットパレード」のコーナーに出演。
芸人がネタの評価を競うスタイルが後に人気となるが、その初期の出演者の1組だった。
ネタには(オチのフレーズが)長文のものが多く、高評価を得ることもあった。番組内で独自に
付けられる芸人別のキャッチフレーズは「くいだおれパンクス」。

CX深夜の帯番組、ウッチャンナンチャン司会の「UN FACTORY カボスケ」でたくさん出演していた
若手の中から際立った目立ち方でウンナンから引き立てられて売れ始めた。デビュー2年にして
オールナイトニッポン2部パーソナリティとなる。以後多くの番組で「仕切り」のポジションに
立ち、若くして冠番組を多数持つようになる。奇しくも、吉本興業に入った頃のインタビューで
淳は将来の夢として「オールナイトニッポンのパーソナリティをやりたい」と語っている。

「1号2号」というのはコンビ名としての表現であり、「どちらが1号でどちらが2号ですか?」と
聞かれる事を狙ったもので、実際に「1号」「2号」の区別がある訳ではない。ただし、
結成当初は年上の亮が1号、年下の淳が2号を名乗っていた。

かつては、深夜帯の冠番組が好調なのに対して、ゴールデンに出ると2クールで終了していった
ため、「深夜でしかウケない」と評されていた。

2000年、2002年、歌手としてエイベックスから3枚のシングルを発売した。
また吉本芸人のユニット「Re:Japan」に参加し、2001年のNHK紅白歌合戦に出場を果たした。

まだ売れてない頃に、占い師の新宿の母に路上で呼び止められ、ちょっと手相を見ただけで
「あんた達売れるわよ」と言われた。


【パーソナルデータ:田村 淳】

山口県下関市彦島出身。山口県立下関中央工業高等学校卒業。
幼少期から目立つことが好きで、幼稚園の学芸会ではダダをこねて主役を譲ってもらったり、
中学校のバスケ大会で入場時のプラカード持ちをキャプテンから代わってもらったりしていた。
高校時代はクラスメイトと「馬関(うまのせき)ふぐの助・ふぐ太郎」と言う漫才コンビを
組んでいた。また、並行してJUN SKY WALKER(S)のコピーバンドを結成したり、「ジャスティス」
というバンドを組んで音楽活動もおこなっていた。

高校卒業後、地元プロダクションの東京事務所に『ふぐの助・ふぐ太郎』のふぐの助として所属。
お笑い芸人を目指し上京する。しかし、活動開始早々相方が病気で離脱してしまう。
その後一人で芸を磨き、約1年後に10歳年上の男性とコンビを組むが、年齢差を理由に淳の方から
コンビ解消を申し出る。その際に紹介されたのが、現在の相方・田村亮である。その後所属
プロダクション・吉谷社長の無償移籍快諾で吉本興業へ移籍する。

1998年頃に『暴ロンブー』の企画で霊能力者に「髪を赤くするべき」とのお告げを受け、
髪を赤く染めた。ちょうどブレイク時期と重なり、吉本興業が赤髪の淳のキャラクターグッズを
大量に生産した。そのため、本人が髪の色を元に戻したいと希望しても会社から許可が下りず、
2002年頃まで赤い頭髪だったが、2011年では黒髪である。

2005年から2008年まで放送されたテレビアニメ『アイシールド21』の蛭魔妖一(ヒル魔)役で
声優出演。オファーのきっかけは芸人仲間からの「キャラクターと本人の性格や容姿が似ている」
という推薦によるものであった。

2006年5月31日、プライベートで活動をしているヴィジュアル系ロックバンドjealkbのボーカル
として、『metronome』でインディーズデビューを果たし、インディーズチャート1位を獲得。
2007年4月には台湾でライブを行い、2007年10月31日に「誓い」でメジャーデビューを果たした。

2009年に野菜ソムリエの資格を取得。

近年は『読売新聞』にコラムを掲載したり、文化放送のラジオ番組『ロンドンブーツ1号2号
田村淳のNewsCLUB』を立ち上げるなど社会派番組に積極的に取り組んでいる。
2009年12月12日の同ラジオで地元の山口・下関市議選への出馬を考えていることを示唆した。
国政進出も視野に入れており、将来は総理大臣になりたいと公言し、文化放送の自身のラジオ
番組でも政界進出の野望を公言している[3]。尊敬する人物に筑紫哲也と佐高信を挙げるなど
政治的にはリベラル寄りの立場を取っている。

人物本来はボケ担当だが、相方の亮が天然ボケであるためツッコミ・仕切り役に回ることが多い。
レギュラー番組では、仕掛人として数々のタレントにドッキリや罠を仕掛けることが多い反面、
逆にドッキリを仕掛けられたりいじられたりすることは極度に苦手である。

熱心な城郭マニアで、写真を見ただけでどこの城か当てる事ができ、一番好きな城は犬山城である。
2010年4月29日、かねてからその犬山城が一番好きだと公言していた事がきっかけで、
「犬山観光特使」に任命される。また、熊本城の一口城主でもある。

また、戦国マニアであり、好きな武将は伊達政宗、好きな戦国女性は濃姫である。
日本刀の収集も趣味で、プライベートで一人の時は真剣の手入れをしながら、邪念に魅入られ
ないように真剣に精神集中をすると言う。2006年、かねてから念願だったNHK大河ドラマに出演。
『功名が辻』で中村一氏を演じた。この他に、歴史に関する番組数本で司会を担当した。

小学校~高校時代はバスケット部に所属していたが、2006年7月4日放送の『ロンドンハーツ』
の企画「ロンドンブーツVSオリエンタルラジオ」において、いくら走っても前に進んでいない
(他出演者曰く「空に向かってる感じ」)鈍足を披露してしまう。2010年11月30日放送の別企画
「男性芸人スポーツ大会!」にて4年ぶりにリベンジを試みるが失敗し、おまけにフォームが
巨乳のアイドルのような様子であることから「お色気担当」「巨乳キャラ」として終始いじられて
しまうという新しい一面を見せた。自身が司会を務めるクイズ☆タレント名鑑でも
「おもしろ走り」と揶揄されている。このように体力がないため、スタミナが必要とされる
筋力系の仕事は亮に任せることが多い。

高校時代には、英語が苦手で、英検4級の受検に失敗した一方、全校生徒の中で最も献血をした
として表彰され、その後も毎年400cc献血を続けているという。

極度の高所恐怖症。1999年12月23日放送の『ロンブー龍』の企画で、生放送中にスカイダイビング
をさせられた際には、地上に到着する前から涙を流し、到着後は「やったよー」「怖かったー」
などと人目をはばからず大号泣した。

極度の潔癖症で、知らない人の握ったおにぎりや料理が食べられない。

芸人になりたての頃、原宿でパスタ屋のアルバイトをしていたこともあり、パスタを得意料理と
している。また、淳自身もパスタ好きであるため、自分で新しいパスタやカルボナーラの
メニューを考え出すこともあり、かつてのレギュラー番組『嗚呼!花の料理人』でその腕を披露した。

出演番組が日本PTA全国協議会の「子供に見せたくない番組」の調査でロンドンハーツだけ毎年
上位にランクインされるが、淳は自身のラジオ番組で日本PTA全国協議会の専務理事と1時間議論を
交わし、「PTAの言い分はわかったけど、番組のスタイルを変えるつもりはない」と語り、
年に1回開催のPTA全国大会の会議への出席も「ぜひ、僕らの姿勢をお話したい」と乗り気の
様子であった。一方で自身の番組に同期や苦楽を共にした仲間を出演させるなど、面倒見が
良い一面もある。加藤浩次は「テレビ番組で見るとチャラチャラしているように見られるけど、
実際はスタッフにも演者の先輩後輩にもちゃんとしている」と語っている。

プライベートで特に仲の良い芸人はじゃぴょんの桑折貴之、ペナルティのワッキー、
品川庄司の庄司智春、インパルスの板倉俊之、ニブンノゴ!の森本英樹などである。
また山下真司とは同郷出身で交友関係にある。漫画家の鳥山明とは飲み友達で、淳が所属する
「jealkb」のライブが、鳥山が住んでいる名古屋で行われる際は必ず見に来てくれる。
その縁でjealkbのセカンドアルバム「invade」のジャケットイラストを鳥山が描き、更に
「友達だからお金は取れない」という理由で、無償で描いている。

ガレッジセールのゴリはロンブーが司会の『ロンブー荘』に本名「照屋年之」で出演していたが、
番組内で淳にゴリと名付けられ、そのまま芸名にしたという経緯がある。そのため、
淳は事実上「ゴリ」の名付け親である。また、プライベートで後輩芸人に無茶な要求をしていると
テレビで桑折などに指摘されている。

大阪NSC11期生よりデビューが3か月ほど遅いため、基本的に11期生を「さん」付けで呼ぶ。
本来は1年後輩だが、ペナルティの事を同期と言うこともある。ペナルティのヒデは年齢が
淳より2歳上のため、『ヒデさん』またはサッカーのことばかり言うため、「サッカーバカ蔵」
と言う。ワッキーについては、年齢はワッキーの方が1歳上だが、「ワッキー」と呼び捨てにする。


女性関係などを写真週刊誌などで頻繁に取り上げられることが多い。『しゃべくり007』出演時
に受けた「一夜限りの恋は何回?」との質問に「(1円=女性1人として)カップラーメン4個分
(およそ400~1000円(人)程度)」と明かしている。事務所の先輩であるナインティナイン
岡村隆史は淳を「平成の火野正平」と評したことがある。過去にマンスリーよしもとの
ランキングで「恋人になりたくない芸人第1位」「友達になりたくない芸人第1位」に
選ばれたことがある。


自分の出演する番組は「完全全チェック」しているとのこと。



【パーソナルデータ:田村 亮】


大阪府高槻市出身。大阪府立芥川高等学校卒業。

担当はツッコミだが天然ボケの傾向があるため、逆によく突っ込まれたりイジられたりしている。
さらに、淳がドSということもあってかバンジージャンプなどのドッキリにも、度々引っ掛けられる
喋らない、言葉を噛むなど、芸人として致命的であるが、亮の家を隠し撮りした際、家族といる
時はよく喋り、言葉を噛む事が無い。それを見た淳は「家族に毎回(収録に)来てもらいたい」
「(噛むのがワザとなら)やめてもらいたい」と発言した。

「吉本男前ランキング」において2000年から3年連続でNo.1に選ばれ、2003年に殿堂入り。
しかし、淳とは対照的に独身時代なぜかモテなかった。

父親は大工で、学生時代はそれを継ぐつもりで修業もしていた。高校3年生の頃、よみうりテレビ
製作『鶴瓶上岡パペポTV』の収録を欠かさず見に行っていたという。

2002年1月30日には田村亮としてのデビューシングル『存在』が発売された。作詞・作曲は田村淳。

2006年、淳が出演していた大河ドラマ『功名が辻』にゲスト出演。相方との絡みは無かったが、
同じドラマにコンビ揃って出演したことになる。


2000年7月12日未明にバイクを運転中、下り坂と間違えて階段に進入、両腕を骨折する事故を
起こした。そのため出演予定だったドラマのクランクインを遅らせることに。その際に亮を
看病したのは当時売れない芸人として自宅に同居していた川田広樹(ガレッジセール)。
亮は手が使えなかったため、トイレに行く際川田がお尻を拭いていた。小は品川(品川庄司)
が担当していた。

2003年に、岡山県出身の女性とできちゃった結婚。『ロンドンハーツ』で独占結婚発表会見が
行われた(番組の企画であり、実際の記者会見ではない)。 2010年現在、2男児をもうけている。

船舶免許を持っている。ある日チャーターした船を操船し出港した際に防波堤に激突して船を
破損させてしまい、所有者から亮本人が吐くほど怒られ、免許も偽造ではないかと疑われた。

プロレス・格闘技ファン。自身も柔道の黒帯を持つ。
旧車マニアで愛車は日産・ブルーバード(510型の2ドア)。
日本のパンクバンドthe ピーズのファンである。
海洋生物も非常に好き。番組で企画されたコーナーでグラビアアイドルの袋閉じには見向きも
しなかったが、海洋生物の袋閉じには我を忘れて開き中を凝視したほど。
釣りが趣味で、クールアングラーズアワード2007を受賞した。釣りの師匠は梅宮辰夫で、梅宮から
「マグロ釣りに行くから、10日間スケジュール開けられるか?」と誘われた事がある。
喫煙者である。


短い金髪がトレードマーク。ブレイク前は黒い長髪だったが、先輩・加藤浩次の勧めで金髪に。
そして2009年6月29日のトークライブで14年ぶりに黒髪に戻す。
仕切りも苦手で、司会以外の役に頻繁に回っている。コンビでの出演でもスタッフがほとんど
淳としか打ち合わせしない、「ロンドンハーツ」のスペシャルの時もほとんど仕事がなく、
子供とゆっくり過ごせるなど「(淳)じゃない方」扱いされる反面、近年は単独でのゲスト
出演の機会が増えている。

リズム感や音感がなく、ロンドンブーツ1号2号として二人でレコーディングを行った際、
ギターとリードボーカル担当の淳がさっさと録音を終えたのに対し、彼のパートはコーラスだけで
あったにも関わらずかなり難航したという。
田中直樹(ココリコ)、藤井隆と仲が良く、三人で海外旅行に行ったこともある。松本人志曰く
「やさし~い、デリケートな三人」。特に田中とは独身時代からの付き合い。
最近では、相方淳頼みのキャラを出している。淳のえこひいきにも「まぁ、ええやろ」と
妥協していたり「これからも捨てんで下さい。お願いします。」と発言し、「淳、やっぱり
お前がいんと無理や!」と番組中で発言する。最近、淳に対して、釣りとウルトラマンシリーズの
知識では淳に負けないという強みを生み出した。

所属事務所:吉本興業
メンバー  宮川大輔 ピン芸人 (1972.9.16生まれ・B型)



京都府京都市出身。京都西高等学校卒業。
高校3年生の時に、父親の同級生である桑原征平(当時関西テレビアナウンサー)の紹介で芝居を
目指すべく阪NSCに同期生から2か月遅れで入学。

1991年4月に同期の星田英利(現・ほっしゃん。)とチュパチャップスを結成。同年より同期の
ナインティナイン(宮川が入った時にはナイナイの二人は学費未納で中退していた)等と共に、
お笑いユニット「吉本印天然素材」に参加する。なお宮川はメンバー最年少であった。

天然素材の人気が低下した1998年頃には、芝公園にあったロシアレストランのキッチンで働き
ながらお笑いを続けていたが、1999年にコンビ解散。解散後は舞台を中心に活動。2001年に
ルミネtheよしもとがオープンすると、「吉本新喜劇」に出演するようになり芸人の仕事に復帰する。
2008年頃からは、連続ドラマに出演するなど俳優としての活動も増えている。また、解散後も
元相方・ほっしゃん。とは舞台やテレビで共演をしている。

「人志松本のすべらない話」シリーズは2004年の初回放送から毎回出演しており、得意の擬音や
アクションを巧みに利用し、家族の話など多数すべらない話を披露している。これを切っ掛けに、
バラエティ番組への出演も増えている。元々この番組は、MCの松本人志が番組中に大輔が披露した
「食事へ向かう途中」という話をプライベートで聞いた際に「こういう何度聞いても面白い話を
披露する番組をやりたい」との発想から生まれたという経緯がある。後にスピンオフ企画として
『大輔宮川のすべらない話』がCSフジテレビ721で放送された。

ダウンタウン松本や千原兄弟の千原ジュニアと非常に仲が良い。
蛍光色を好み、普段着でも成功色の洋服や小物を身につける。
文房具が好きで、海外へロケへ行った際に必ず買ってしまうという。
ヘビースモーカーで、1日に50本以上のたばこを吸う。
たばこが原因で、映画で樹木希林とのキスシーンがあったが、先方からNGにされた。


1997年 一般女性と入籍。
2010年12月2日、結婚13年目にして第1子(男児)が誕生。


所属事務所:吉本興業
メンバー  :ほっしゃん。 ピン芸人 (星田英利 1971.8.6生まれ・A型)


本名:星田 英利
大阪府泉南郡南海町(のち阪南町、現・阪南市)出身。上宮高等学校卒業。
上宮高等学校卒業。中学時代の後輩にたむらけんじや小学校・中学校の後輩にイシバシハザマ
石橋がいる(ほっしゃん。の妹と同級生)。
NSCに入ったキッカケは大学受験に失敗したことを医者の父親に責められ逆ギレして入学。
NSC大阪校の9期生でナインティナインや矢野・兵動、宮川大輔と同期である。
宮川大輔と「チュパチャップス」というコンビを組んでいた吉本印天然素材等で活躍していたが
コンビ不仲や、方向性の違いで1999年に解散しピン芸人となる。

芸名の「ほっしゃん」部分は矢部浩之(ナインティナイン)が、末尾の「。」はつんくが命名。

吉本印天然素材が解散し、コンビも解散し、ピン芸人となってからは仕事がなく、4年間で仕事が
3個しかなかったという。
2001年4月 拠点を東京へ移す。
2005年 第3回R-1グランプリ優勝

その後、徐々に仕事が増えはじめる。

トーク力も高く、親交のあるダウンタウン松本人志からも絶賛されている。
雨上がり決死隊の宮迫と一緒に住んでいたことがある。

うどんの麺を鼻から吸い込み、軽く咳き込んだ後に口から出すという特技を持ち、
大の動物好きでリスザルや亀など、珍しい動物を飼っている。
フクロウが好きで、フクロウグッズを集めている。

2007年11月11日 入籍。
2009年6月2日 長男誕生。

夫人との出会いは18歳の時で、18~29歳まで10年間同棲していた。しかし、R-1グランプリで
優勝した年に、突然出て行った。一緒に住んではいたが、部屋を別々にしていた為、いつ出て
行ったのかもわからなかったという。ある日、爪切りを探して彼女に爪切りの置き場所を聞こうと
彼女の部屋を覗いたら荷物がすべてなくなっていた。別れてから3年間空白の期間があり、ふと
酔った時に寂しくなり、ほっしゃんから彼女に電話をした。久しぶりだった為、何を話していいか
わからず、かまをかけるつもりで「旦那や子供は元気か?」と聞いた。すると彼女が
「旦那って何よ?子供って何よ?」となり、「結婚してないんか?」とほっしゃんが聞くと
「結婚してないよ」と答えたので、ほっしゃんが「じゃあ結婚してくれ」とプロポーズし
あっさり「ええよ」となった。

夫人がかなりの天然で、夫人の「ガス代」の話ですべらない話のMVSを獲得した。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :遠藤章造 (1971.7.13生まれ・O型・ツッコミ)
        田中直樹 (1971.4.26生まれ・O型・ボケ)



2人は小学生からの同級生。遠藤がサラリーマンを辞め無職だったため、専門学生だった田中を
誘いオーディションへ。結果、見事合格しココリコボンバーズを結成。大阪出身だったが
吉本興業東京本社(東京吉本)からデビューした。

コンビ名は2人が中学生の時拾った手帳に書かれていた「喫茶ココリコ」から。それを届けた
ところ、謝礼として1万円を貰い、縁起のいい名前として付けた。「ボンバーズ」とは当時
「ン」がつくコンビ名は売れるというジンクスがあったため付足した。しかし後に極楽とんぼの
加藤浩次からアドバイスを受け「ボンバーズ」は撤去され現在のコンビ名となった。
当初の仕事は『吉本印天然素材』の前説。初舞台は赤坂プレイボックスでのイベントであった。
その後、『ガキの使い』の前説を経てレギュラーへ昇格する。


大阪NSC11期生である中川家、陣内智則などや、11期生とほぼ同期である藤井隆、海原やすよ・
ともこ等とはお互い同期と番組でも公言しているが、デビューが1992年5月のため実際には
彼らよりほぼ1年先輩であり、厳密には大阪NSC10期出身者(ジャリズム、メッセンジャーなど)
がほぼ同期にあたる。本人達は同じNSC11期出身のたむらけんじに対しても同期として接しているが、
当のたむらはココリコを先輩と思っているという。




【パーソナルデータ:遠藤章造】

大阪府豊中市出身。寒川高等学校卒業。
父親は鳥取県出身。「章造」の名は、米子市議会議員を務める叔父が考えた。
元妻は同い年のタレント千秋。2002年に結婚。関西ローカルの深夜番組『ココリコ海上火災』
での共演がきっかけで、同じ阪神タイガースファンであったことから意気投合。
プロポーズの言葉は「お前と一緒なら、お爺ちゃんお婆ちゃんになっても楽しく過ごせる気がする」
しかし、2007年12月28日に離婚。

小学2年から野球を始め高校進学時に7つの名門校からスカウトが来たが高校野球激戦区の大阪を
避け、香川県の寒川高校に同校における野球留学1期生として進学し、3年生の時にはキャプテン
を務めた。しかし、スカウトを受けた高校のうち、自分が選んだ高校だけが3年間で甲子園の土
を踏めなかった。
母親が森進一の大ファンで、喜ばせようと子供の頃から森進一のモノマネを始めるようになったが、
披露した際「オカン、オレ森進一に似てきたやろ」とマネしたら、「そこはおふくろさんやろ!」
と突っ込まれたとの事。


【パーソナルデータ:田中直樹】

大阪府豊中市出身。
ネタ作り担当・リーダー。


妻は女優の小日向しえ。2003年6月に結婚し、2児の父である。
口癖は「すげえなー」。
気の弱いいわゆる「ビビリ」で、びっくりするとこけたり、浜田雅功にキレられるドッキリで
泣いたことがある。
喫煙者(マイルドセブン・ライト)。

豊中市立豊島小学校、豊中市立第四中学校卒業。小学生の頃から野球を始め、中学では後に相方と
なる遠藤と同じ準硬式野球部に所属、副主将を務めた。ポジションはキャッチャー。
その後大阪府立桜塚高等学校に入学し、ハンドボール部に所属。高校卒業後はデザイン系専門学校
に進学。在学中に、サラリーマンを辞めて無職だった遠藤に誘われオーディションへ。見事合格し
「ココリコボンバーズ」を結成。大阪出身だが吉本興業東京本社からデビューした。
役者としても活動しており、三谷幸喜監督の2001年公開映画『みんなのいえ』主演、
2005年公開映画『逆境ナイン』の高校野球の監督役、
2006年公開映画『サイレン 〜FORBIDDEN SIREN〜』の島の医者役など。
1999年放映のフジテレビ系列、『世にも奇妙な物語』1999年秋の特別編の一編である「逆男」にて
ドラマ初主演を果たしている。
2008年公開の『チーム・バチスタの栄光』では、一連の事件における重大な位置におかれる人物と
いう大役に抜擢された。
2009年10月17日本公開の映画『ファイナル・デッドサーキット』では吹き替えで主演を務める。

動物好きで、動物に詳しい。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :たむらけんじ ピン芸人 (田村憲司 1974.2.22生まれ・O型)


大阪府阪南市出身、大阪府立和泉高等学校卒業。
本名:田村 憲司(読み同じ)。愛称「たむけん」
「炭火焼肉たむら」を運営する株式会社田村道場の代表取締役。愛称「たむけん
NSC大阪11期生。同期には陣内智則ケンドーコバヤシ、中川家、ハリガネロック、など。
1992年より大阪府立和泉高等学校の同級生である大北貴洋とコンビ「LaLaLa」を組んで活動して
いたが、1999年8月に解散。以降はピン芸人として活動している。
2001年9月にbaseよしもとを卒業後は東京に進出。主にルミネtheよしもとの舞台で、ピン芸を
やったり新喜劇に参加していた。しかし2003年に拠点を大阪に戻した。

地元の関西で収録される番組では、特にキャラクターを作らず素顔・普通の衣装で出演している。
一方、全国ネットを含む東京の番組では、「獅子舞」「ふんどし」「サングラス」という裸芸人姿が
定着してしまったため、その格好で出演することが大半となっている。ヘアスタイルは、往年の
横山ノックを参考にしたと語っている。スタイルの違いが大きいため、サッカー選手水本裕貴は、
ジェフユナイテッド市原・千葉からガンバ大阪への移籍に伴い関東より大阪に移り住んだ際、「
たむけんが服を来ていることに驚いた」と発言している。

関東におけるスタイルの際は、上半身には旬な一言を書いているが、これはたむらがその都度
「お前字が上手いか?」と聞いて「上手い」と言った芸人に書かせているものである。

2000年代後半以降は飲食事業に力を入れていることで一般的な認知度を広め、実業の他、
淡路島における観光娯楽事業の企画にも参画している。

おなじみのネタ「ちゃー」という一発芸は、たむらの息子が考案し、たむらが5,000円で
買い取ったものである。

焼肉店経営当時「芸で稼げず事業を興した実業が半端な芸人」というネタで茶化されていたが、
事業でかなりの利益があることがオープンになるにつれ、他タレントから「何の肉を使ってるか謎」
「肉の仕入先は大同門(同業種の大手チェーン店)からの出前」、さらには客の食い逃げや
食中毒騒ぎ等、商売に横槍を入れる洒落で難癖をつけられ声を荒げて反駁するパターンが
テレビ番組でまま見られた。稀ではあるが芸人としてのスケジュールの合間を縫って、
たむら本人が店内ホールにて給仕を行ったり、タレント仲間や事務所の後輩芸人などに焼肉を
振舞っている様子などが目撃されている。


2006年12月、大阪市城東区(蒲生四丁目)に焼肉の店「炭火焼肉たむら」1号店をオープン。
店の看板のロゴ文字は、後輩芸人の中でもかなり絵心のある野性爆弾 川島邦裕による。
そもそもは義母が経営していた店舗だったが、諸事情により、本人が経営を引き継ぐことになった。
2007年11月1日には、大阪市中央区南船場に2号店をオープン。
2008年6月6日、名古屋市の複合施設「サンシャイン栄」6階に、ファッションデザイナーのNIGOが
デザインを手がけたVIPルーム完備の焼肉店「炭火焼肉たむら」3号店をオープン。
2008年7月10日、神戸市・須磨海水浴場内の海の家「fu-rin」に、「
炭火焼肉たむら 須磨の海の家店」を8月31日までの期間限定で出店。
2009年6月6日、「鉄板焼たむら」をオープン。
2010年秋より、ビジネスの専門知識習得を目的として、関西大学商学部の聴講生として通学する
ことを明らかにした。
2011年9月29日、新大阪駅構内のフードコート「大阪のれんめぐり」に「炭火焼肉たむらのお肉が
入ったカレー屋さん」をオープン。

所属事務所:吉本興業
メンバー  :陣内智則 ピン芸人 (1974.2.22生まれ・O型)

兵庫県加古川市出身、兵庫県立高砂南高等学校卒業。
高校の同級生・西口圭と一緒にNSC大阪校の11期生として入学。2人で「リミテッド」と称する
コンビを結成した。このコンビ名は陣内が「限界」という意味の「リミット (Limit) 」と
間違って名付けたものである。「リミテッド (Limited) 」は「制限された」「僅かな」という
意味の言葉であるが、本人は指摘されるまでこの勘違いに気付かなかった。「リミテッド」と
しての初仕事は、その当時WコージーがMBSラジオでやっていた番組の素人参加のコーナーだった。
高校生の時にも『ピート・ローズ』というコンビ名で出演し賞金を稼いでいた。
「NSCアマチュア大賞」の秋開催のグランプリを獲得。これが、「リミテッド」で獲得した
唯一の賞となる。
陣内は同級生と一緒にNSC入学と同時に寿司屋『小鯛雀鮨鮨萬』に就職しており、職人達の中
での厳しい仕事だったため同級生はすぐに辞めたが陣内は卒業までの一年間、早朝から
皿洗いや料理の下ごしらえなどをしていた。
NSC卒業後、心斎橋筋2丁目劇場を中心に活動をスタートさせる。しかし当時の「リミテッド」
は評判が芳しくなく、「2丁目ブーム」の中「リミテッド」は「2丁目で一番おもんないコンビ」
「見ると不幸になる」などと揶揄されていた。結果、結成3年後の1995年9月に解散。相方の
西口は芸能界から引退したため、陣内自身はピン芸人への転向を余儀なくされた。
リミテッド」解散以来、「Wachacha Live」への出演もままならなくなった陣内はテレビの
『すんげー!Best10』やそこから生まれたユニット「そういう人達」のライブ活動で凌ぎ、
1996年12月の若手ネタ番組『オールザッツ漫才』(毎日放送、関西ローカル)に出演。若手芸人のトーナメント戦で欠員が出たため(岸本R突然の不参加による)、陣内が急遽スタッフに呼ばれ一人でネタを
披露するという場面があった。センターマイク前に一人で立ち一発ネタを一人でただしゃべる
だけだったが、これがウケまくり3回戦まで進出した。
解散のショックからなかなか立ち直れないでいた1997年、先輩芸人や吉本側から
「ネタが作れない芸人は出るな」「次のイベントでスベったら芸人を辞めろ」と、最期通告を
受ける。プレッシャーからネタ作りもままならなかったが、イベントの直前に偶然乗った電車の
車掌のアナウンスが変であったことに思わずツッコミを入れたところ周囲から笑いが起きたこと
に気づき、「予め用意された音声や映像にツッコミを入れるネタ」の原型となる、新しい手法の
ネタが閃いた。開演数分前にようやく新ネタが完成し、それを演じたところそのイベントで
今までにないぐらい評判が良かったため吉本の陣内に対する評価も一変し、次々と仕事が
舞い込むようになる。そしてその数ヵ月後に行われた、1998年第19回 ABCお笑い新人グランプリ
で優秀新人賞を受賞した。
「面白くない」、「会社から辞めろと言われている」と芸人仲間からもよくネタにされており、
『すんげー!Best10』内でしましまんずの池山心が陣内をネタに、「陣内、君は支配人に
辞めろって言われたね。だけど君はこう言った。『支配人の方が辞めればいいのに』って。
負けるな陣内、君なら絶対やれる。絶対やれるよサラリーマン」という歌を作った。
仕事がなく自宅で落ち込んでいた際、当時交際していた彼女から、「陣くんの面白さは
私が一番よく知ってるから。私が面白いと思ってるのは、陣くんと三田村邦彦だけだよ」
と励まされ、非常に複雑な気分だったという。
1999年10月スタートの情報番組『ちちんぷいぷい』の月曜レギュラーに抜擢され、同曜日の
かつての人気企画「クイズ私鉄沿線」で関西の中年層への知名度も徐々にアップする。
番組内では、司会者である角淳一とはいつも舌戦を繰り広げていてお互いに「親子のような関係」
と言うほどの仲だった。また同じ1999年10月に深夜バラエティ番組『クヮンガクッ』の
レギュラーにもなり、2000年3月に始まった同番組の人気企画「レシートすごろく」で
更に関西での知名度が上がる。

1999年にbaseよしもとが開館し、FUJIWARA、シャンプーハットらとともに後輩たちをまとめる役
を買って出ることになった。また、この頃から番組やイベントなどでの司会を任されること
が多くなるが、その中でも圧倒的に毎日放送での仕事が多い時期に、毎日放送の番組で有名に
なったこともあって陣内は「MBSの若獅子」「MBSと言えば陣内智則」と言われるようになる。
ケンドーコバヤシをして「(当時同局アナウンサーであった角淳一に媚びているのではないかと
いう冷やかしで)角智則に改名しろ」と言わしめたほどであった。

1999年11月、「爆笑オンエアバトル」で初挑戦にして537KB(キロバトル、100人中98人が投票)
という高得点を獲得した。これは当時の番組最高記録であり、また「初挑戦における最高
キロバトル」として歴代でも1位タイの記録である。その後16戦16勝という高記録で
ゴールドバトラーに昇り詰めた。これらの輝かしい記録から、2008年の番組公式
ホームページ内の『オンバト名勝負百選』というコーナーで「オンバト史上最強の一人芸人」
と番組プロデューサーに評された。
baseよしもとを卒業後は、うめだ花月やルミネtheよしもとなどで活動。2003年に
『エンタの神様』に出演して以来東京での仕事も増えていく。平日は大阪で仕事をし、
木曜日に『なるトモ!』の生放送と同番組の金曜分の収録が終わるや否や、午後から新幹線や
航空機で移動し、東京で『エンタの神様』などの番組収録とルミネtheよしもとの公演を
こなしていた。
2003年頃からは、俳優、声優など他の仕事も手掛けるようになる。

2004年6月単独ライブ『NETAJIN』公演。この模様はDVD『NETAJIN』に収録され、お笑い関連の
DVDが1万枚を売れればヒットといわれる中、4.9万枚(2006年12月時点)という大きな
売り上げ枚数を記録した。

2007年4月10日 ドラマ共演で知り合った女優藤原紀香と入籍。
2009年3月23日 離婚。自身の浮気が原因として謝罪会見を開いた。

2010年4月6日、ルミネtheよしもとで吉本新喜劇座長としてデビュー。

サークルJ」と称するグループを結成している。これは陣内が出演していたラジオ番組に由来し、
名前は軍団と称するにはゆるい集まりなのでサークルとしたものである。最初は「ペット
ショップの子犬の成長を見守る」集まりだった。
「サークルJ」メンバーは主に小出水直樹(シャンプーハット)、徳井義実(チュートリアル)、
すっちー、中川貴志(ランディーズ)、月亭八光、ロッシー(野性爆弾)、ハラダ
(ファミリーレストラン)、和田友徳(ヘッドライト)、瀬戸洋祐(スマイル)など。
大阪時代には、ブラックマヨネーズの吉田敬を、「毎日一緒にいた」と言うくらいかわい
がっており、当時の彼女から「私と吉田さん、どっちが大事なの?」と本気で聞かれた
ことがある。また、当時まったくの無名だったブラマヨを「こいつらオモロいから」と、
自らがMCをつとめるイベントのレギュラーに抜擢し売れるキッカケを作った。
阪神タイガースの選手とは公私共に仲が良い。
有名人でお互いに親友だと公言している人物は、ケンドーコバヤシ、山崎邦正、桧山進次郎、
加藤晴彦など。
所属事務所:吉本興業
メンバー  :ケンドーコバヤシ ピン芸人 (小林友治 1972.7.4生まれ・O型)


大阪市東住吉区出身。初芝富田林高等学校卒業。
NSC大阪11期生。同期に陣内智則たむらけんじ、中川家など。

NSC在学中「沖・小林」を経て、現ハリガネロックのユウキロックと「松口VS小林」を結成、
ボケ担当。ツッコミにドロップキック等のプロレス技を用いたり、ネタをしながら互いに
プロレス技を掛け合うといったアンタッチャブルな芸風で人気を得るが、コンビ名通り対立関係に
発展してしまい方向性の違いから1995年解散。

その後同期の村越周司と「モストデンジャラスコンビ」結成。一応ツッコミ担当だったが、
全くボケ・ツッコミの区別がつかない無秩序なネタを生み出し続けた。当時の心斎橋筋2丁目
劇場ブームに乗り、また小林の実力を評価した千原兄弟や、バッファロー吾郎、FUJIWARAなど
先輩芸人の後押しもあり活躍。モストデンジャラスコンビは村越が芸人引退を希望し
(村越はフリーのピン芸人として2006年復帰)、2000年3月解散。

解散に伴い、ピン芸人としてbaseよしもと、2003年9月からはうめだ花月を中心に活躍。

バッファロー吾郎主催の大喜利イベントダイナマイト関西には初回から参加、優勝経験がある。
その他各種イベントやMBSラジオ『スッごい!おとなの時間』など数々共演。野性爆弾、
ザ・プラン9、友近らと共に、バッファローファミリーとも称され『アメトーーク!』などで
取り上げられた。また、FUJIWARAともテレビ大阪『吉本超合金』で共演。後番組
『吉本超合金K・ケンコバ大王』は初冠番組。

2001年4月から『見参!アルチュン』・『?マジっすか!』(共に毎日放送)に出演。中高生の間で
知名度を上げる。さらに毎日放送の昼の情報番組『ちちんぷいぷい』のレギュラー出演で
一般層に知られるようになる。

2006年夏には『ケンドーコバヤシのオーサカ夜キング』(毎日放送)が放送。同番組には陣内、
たむけんをはじめ、元相方村越周司など、コバヤシ所縁の多数のお友達ゲストが日替わりで
登場した。

2003 - 2005年にかけてテレビ東京のハロープロジェクト関連の番組、ダウンタウン司会
『考えるヒト』(フジテレビ)など、全国放送のテレビ番組に出演するようになる。

2006年には『アメトーーク』で後述の「越中詩郎大好き芸人」が大受け。
『人志松本のすべらない話』、『やりすぎコージー』『ゴッドタン』『明石家さんちゃんねる』
など露出も増え、知名度を全国区にする。

2007年8月、ダウンタウン松本の兄、取締役松本隆博プロデュースでメッセンジャー黒田との
音楽ユニット「コバクロ」結成。デビューソングは「わくわくしない世代」。

また、映画『パッチギ!』『ヤッターマン』や、ドラマ『BOSS』など、俳優としての起用も徐々に
目立ちつつある。自身の俳優の仕事を本人曰く、「人妻の危険なアルバイト」とのこと。

テレビ上でのキャラは嘘付きで、見た目の風貌で怖い人と思われがちで、自身でも適当で不真面目
な人を演じているが、実はやさしくておもいやりがあって吉本一の紳士と言われる。
芸人仲間の為に涙を流すことも多く、情に厚い男として見られている。

大のプロレス好き、漫画好き、バイク好きである。


仲の良い芸人はの陣内智則たむらけんじバナナマン日村など。千原ジュニアにかわいがられている。
所属事務所:松竹芸能
メンバー :木本武宏 (1971.5.6生まれ・A型・ツッコミ)
       木下隆行  (1972.1.16・A型・ボケ)


2人は中学校からの友人であり、木下は別の男性と吉本興業に入ろうと約束していたが、その男性は
フィリピンへ。そんな木下に木本がローラースケート場で、「その迷彩の手袋、かっこええなあ」と
声をかけたところ、木下は木本とコンビを組もうと決心したという。
1990年10月に松竹芸能へ入り、1990年代中期より関西を中心にライブやテレビ・ラジオ等で活躍。
テレビでは事務所の先輩森脇健児の番組によく出演していた。
最初のコンビ名は「たむろ」(「ウッディーズ」にしようという案もあったらしい)だったが、後に、
2人ともイニシャルがT.K.なので、これにボクシングのT.K.O.(テクニカルノックアウト)を
かけたT・K・Oにした。その後、TKOに改名。
吉本ではなく松竹に入った理由は、「吉本は層が厚すぎてチャンスがなさそう」だったから。木下は、
「尊敬する芸人は?」と聞かれると「吉本の芸人全員」とテレビなどでよく答えている。
これまで何度か東京進出を試みるも、いずれもさまざまな理由から定着することなく、ことごとく
失敗を重ねてきた。2006年、特に理由はないが「今だ」と思い、勘を頼りにこれが最後のチャンスと
決め5度目の東京進出を果たし、2009年に芸歴20年目ながら全国区で知られるようになる。


デビュー当時は、ふたりともハンサムで通っていた。。
後輩のますだおかだにライバル心があるらしく、劇場で靴を隠すといった嫌がらせをしていた。
オセロが地方の営業に遅刻した際に2人が泣くほど叱りつけたが、後日事務所からその事について
逆にこっ酷く叱られてしまった。現在はオセロの松嶋尚美と、のイズ時代から交流のある
ヒサダトシヒロの結婚式に、共通の友人として木本が出席するなど、良好な関係となっている。
なお松嶋からは、後輩であるが年齢は同じという理由で「くん」付けで呼ばれている。
ますだおかだ、オセロだけでなく安田大サーカスにまで抜かれた時は相当悔しかったらしく、
安大のクロちゃんがオチで使う紙吹雪を隠したことがある。
爆笑オンエアバトルの初出演は270KBでオンエアされ、現在もオンエアされたKBの最低記録である。
森田まさのりが『ヤングジャンプ』で掲載した読み切りの『柴犬』は、TKOのふたりをモデルに
した話だが、当時は2人が無名だったので、「取材協力 松竹芸能」になった。
二人とも10代の頃から『ダウンタウン』のファンで、地元・大阪でのイベントで催された漫才を
見るために徹夜で会場に並んだり、追っかけをしていた。


【受賞歴】

1994年 ABCお笑い新人グランプリ新人賞
1994年 爆笑BOOING第4代グランドチャンピオン
2008年 キングオブコント決勝進出 7位
2009年 S-1バトル月間チャンピオン(9月)
2010年 キングオブコント決勝進出 3位
2011年 キングオブコント決勝進出 6位


【パーソナルデータ:木本武宏】

大阪府大東市出身、フィリップス大学日本校中退。
趣味・特技:釣り・サッカー・木工・PC映像制作。
Macで作った映像を売って小銭を稼いでいたこともある。
松竹芸能の風紀委員と呼ばれており、礼儀作法には特に厳格。
ますだおかだがM-1グランプリ王者になったとき、本人いわく「負けを認めた」ものの、松竹芸能の
事務所に展示してあったますだおかだのM-1グランプリのトロフィーを無断で持ち帰り、
真っ二つに折り道頓堀に投げ捨てた。

S-1バトルで得た賞金で事務所の後輩やスタッフを沖縄に連れて行った。
現在の嫁とは16歳からの付き合い。


【パーソナルデータ:木下隆行】

大阪府出身(福岡県生まれ)、大阪府立食品産業高等学校(現・大阪府立枚岡樟風高等学校)中退。
趣味・特技:サーフィン・スノーボード・インターネットゲーム・知ったかぶり。

ラジオ番組「ハイヤングKYOTO」の生放送中に、当時交際していた女性にプロポーズをして結婚。
そして長女一人をもうけたが、5回目の東京進出の際に離婚している。長女は嫁が引き取ったため
離れて暮らしており、その長女からもらった手紙を大切にしている。
実家は関西や関東を中心に15店舗を持つ「元祖鉄板鍋きのした」グループで、現在は木下の長兄
・眞行が経営者。次兄・浩行も「鉄板鍋づくし」「つけ麺屋ちっちょ」などを経営する実業家。
売れていなかった頃、長兄から「ちょっとオモロいだけの芸人より、ちょっとオモロい焼肉屋の
店長の方がモテるぞ」と誘われ、芸人を辞めようかと悩んだことがあるという。
モテたい願望が強く、お腹の脂肪吸手術をした。除去した脂肪は3リットル。さらに、前歯四本を
入れ替え歯ぐきの色を薬剤を使ってピンクにした。
ケチで有名で、タバコを人からもらってばかりで決して自分では買わないらしい。
相方はS-1でもらった賞金でスタッフ、後輩を旅行に連れていったのに対し、木下は誰にも
奢らず、ちょっとずつ自分に使ったという。
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